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樺太アイヌ、知られざる強制移住の歴史(2020年4月29日配信『共同通信』)

 貧困と差別の中を生きた母娘の記録をたどる

 2011年8月、樺太(現・サハリン)の空は晴れていた。大地を駆け抜ける列車。楢木貴美子さん(72)は仲間から誘われて、樺太アイヌの母が生まれ育った地を目指していた。車窓の外には、フキやワラビが緑色のじゅうたんのように広がる。過ぎていった人影は、腰を曲げてツルコケモモ(フレップ)の実を採っていた。

 「日本人になっていなかったらここに残っていたのかな。ここにいれば幸せだったのかな」。重なったのは故郷を追われた樺太アイヌの母が山菜を採っていた姿だった。傍らに携えた母の写真を窓に向け、そっと語りかけた。「ほら、見てごらん」
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樺太アイヌの母を持つ楢木貴美子さん=札幌

 太平洋戦争末期、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して樺太に侵攻した。樺太アイヌは多くが移住を強いられ、楢木さんの両親や8人のきょうだいも父のふるさとである青森県弘前市に逃れる。楢木さんは、1948(昭和23)年、そこで末っ子として生まれた。父は直後に他界し、一家は母の親戚や知人を頼り、樺太からの引き揚げ者やアイヌの開拓集落だった北海道豊富町稚咲内に移住した。3歳ごろのことだ。

 住まいはニシン漁の番屋。浜辺に建てられた掘っ立て小屋だった。海風にあおられた砂が壁の隙間から吹き込み、冬になると寒さで布団の襟元が霜が降りたように白くなった。

 ニシンが大量に捕れると、学校には大漁旗が掲げられ、休校になった。「でもうれしくなかった」と楢木さん。子どもも大人たちの作業を手伝わなければいけなかったからだ。浜に戻ってきた漁船の網から掛かった魚を外し、木製のリュックサックの形をした「もっこ」に入れて背負い、番屋まで運んだ。身欠きにしんや数の子に加工した後のかすは大釜で煮て、むしろに敷き、天日干しに。それをむしろで作った袋に入れて出荷すると、貨車で岡山県倉敷市まで運ばれ、綿花の肥料になった。

 生活は厳しかった。水はけが悪く、作物を作ることもままならない土地。米がとれず、わずかにご飯があるときは、大根やジャガイモを混ぜてかさましした。「白いご飯をいっぱい食べることが夢だった」

 あるときニシンがとれなくなった。原因不明の不漁は続き、さらに困窮した。姉がでんぷん工場で拾ってきたジャガイモの粉を、母がこねてかためたものを弁当箱に入れて学校に行った。見られるのが恥ずかしくて、ふたを半分だけ開けて隠れるように食べた。おなかがすいて、グラウンドのそばの木に寄りかかっているうちに、気が遠くなったこともある。

 同級生からはいじめも受けた。帰り道に石をぶつけられたり、雪に頭を押しつけられたり…。なぜそんなことをされるのか分からなかった。後に、自身がアイヌであることが理由だったと知る。

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楢木貴美子さんの樺太アイヌの母.

 母や知人たちは自分たち樺太アイヌを「エンチゥ」と呼び、酒を飲むと樺太アイヌ語やロシア語を話したが、当時は誰も自分がアイヌだとは教えてくれなかったからだ。ただ「周りとは違う」と思っていただけだった。

 ただ一つ、美しい思い出がある。ニシンを煮ていた大釜は、不漁で使わなくなり、五右衛門風呂に早変わり。シラカバの薪を燃やして沸かした湯につかり、夜空を見上げると満点の星が輝いていた。「あのときだけが至福の時間だったんだなと今は思う」

 10歳を過ぎたころ、生活がいよいよ立ちゆかなくなり、釜を売って汽車賃にし、小樽市に移り住んだ。母は毎日、山に行き、採った山菜を小樽駅前の「三角市場」の片隅で売った。きょうだいの養育費に充て、大人になるまで育て上げた。

 その母も1992年に86歳で逝く。遺品の中に手記が残されていた。「なんで稚咲内に来たんだろう。砂浜で泣き崩れてしまった」。ふるさとを遠く離れたつらさが赤裸々につづられていた。「どうせ読まれない」とも。楢木さんは「ちゃんと読んでいるよ」と涙が止まらなかった。

 2011年、初めて母が生まれ育った樺太へ。鉄道で北上して7時間に渡る旅路。たどり着いた湖畔の集落は荒れ果て、朽ちた住居や井戸の跡ばかりだった。母はここで、山で木を切る男たちの食事を作り、過労から血を吐いたと言っていた。「大変な思いをしたんだ…」。言葉に詰まった。

 悲しいことがあると、今でも母を思い出す。樺太アイヌ民族のリーダーを主人公とした小説「熱源」が今年1月に直木賞を受賞した。脚光を浴びはしたが、日ロ関係に翻弄され、強制移住させられた樺太アイヌの存在はまだまだ知られていないと思う。その歴史はなおさらだ。「もっと知ってほしい」。母の苦労をなかったことにはしたくないから。

 ▽一口メモ「アイヌ民族の居住地」

 19世紀以前のアイヌ民族は北海道各地のほか、樺太、千島列島などに広く住んでいた。居住地域では今もアイヌ語由来の地名が多く残る。現在では北海道など全国各地に住んでいる。

 樺太アイヌは北海道のアイヌとは異なる言葉や文化を持っていた。1875年に日本とロシアが樺太千島交換条約を締結し、日本は樺太をロシアに譲渡。住んでいたアイヌの一部は北海道江別市対雁(ついしかり)に強制移住させられ、その後、疫病で約半数が死亡したとされる。日露戦争(1904―05)では、日本が南樺太を領土にし、樺太アイヌの一部が故郷に戻ったが、太平洋戦争末期の旧ソ連の侵攻により、多くが再び移住を余儀なくされた。




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