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戦場の住民たち・沖縄戦75年(2020年6月22日配信『毎日新聞』)

少年1000人はゲリラにされた 沖縄戦“護郷隊” 「軍は国民を利用する」

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自宅近くの森を前に戦争時を振り返る仲泊栄吉さん。「昔の仲間も、もういなくなってしまった」=沖縄県東村で2020年6月19日午前10時3分

 「志願じゃなくて命令だよ。でも軍隊に行くのが本望だったから。僕も喜んだ」。沖縄県東村の仲泊栄吉(なかどまりえいきち)さん(91)は振り返る。1945年3月、16歳だった仲泊さんが送り込まれたのは「護郷隊(ごきょうたい)」と呼ばれるゲリラ部隊だった。山中に潜み、侵攻する米軍をかく乱する役割を担った。「逃げてもいいよ」。集まった少年たちに部隊長はそう述べ、さらに続けた。「逃げてもこれだから」。部隊長が首を切る仕草をしたのを仲泊さんは再現してみせた。

 防衛省や県の資料によると、沖縄戦における米軍の総兵力は推計で54万8000人(うち上陸部隊は18万3000人)。対する日本軍は10万2000人。このうち約4分の1に当たる2万5000人は、圧倒的な戦力差を補うために防衛隊や学徒隊として集められた地元の住民たちだった。

 沖縄戦に詳しい沖縄県名護市教育委員会の川満彰(かわみつ・あきら)さん(60)によると、護郷隊は44年10月~45年3月、15~18歳の約1000人が集められて発足した。指揮したのは秘密戦や謀略などの特殊任務を担う要員を養成した陸軍中野学校の出身者。川満さんは「旧陸軍第32軍(沖縄守備軍)が壊滅すれば米国は沖縄を足場に本土攻撃してくると大本営は予想した。護郷隊によって米軍を後方からかく乱する作戦だった」と指摘する。「軍国教育の下では少年たちに選択肢はなく、事実上の強制だったと言える」

 仲泊さんらは沖縄本島北部の恩納岳の山中に潜み、10キロの爆薬を米軍の戦車が止まっている場所に仕掛ける作戦に当たった。直前に別れの杯が交わされ、自爆用の手投げ弾を持たされた。「殺されるより自分でやる(自爆する)のが名誉でした」。だが、作戦は米軍の戦車が動き出したために失敗に終わった。

沖縄戦の日米の総兵力

 仲泊さんは負傷兵を担架で運び、亡くなれば次々に穴に埋める役目も担った。そうした中、歩けなくなった少年兵が軍医に射殺されるのを目撃した。「(少年兵が)青白い顔をして座らされてよ」。1発目の弾は当たらなかった。少年兵は掛けられた毛布から顔を出し、「ははは」と笑ったという。2発目は命中。少年兵は動かなくなった。

 仲泊さんによると、少年兵は高江洲義英(たかえす・ぎえい)さん(当時17歳)。負傷で精神が不安定になっていたとみられる。「歩けないのは皆やった(殺害した)んじゃないか」。仲泊さんは続けた。「教育されれば、人を殺せるようになってしまう。それが戦争だ」

 「ああ義英、どうしてこんな姿になったのか」。高江洲さんの弟、義一(ぎいち)さん(82)=那覇市=は、母が遺骨を抱いて嘆いた姿が今も忘れられない。義一さんは優しかった兄の死を悔やむ一方、1発目が外れたのは軍医の手が震えていたからではないか、と想像する。「命を救うべき軍医が人をあやめるのに迷いがなかったはずがない。何が彼をそうさせたのか。それをよく考えないと戦争の本質を見誤る」

 沖縄県糸満市の平和祈念公園にある「全学徒隊の碑」。沖縄にあった師範学校、中等学校などの生徒が戦場に動員された歴史を伝え、県史よりも多い1984人の犠牲者の名が刻まれている。一方、義英さんのように護郷隊として犠牲になった少年兵約160人の存在は広く知られておらず、その実態は川満さんや報道機関による近年の調査でようやく明らかになりつつある。

 「根こそぎ動員」。多くの証言を聞き取ってきた川満さんは強調する。「赤ちゃんからお年寄りまで、44年当初には約五十数万の住民がいた沖縄で、日本軍は地上戦を展開し、住民を戦略に当てはめた。戦争になれば軍隊は国を守るため、国民を利用するのです」




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