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「逆へ逃げた」9歳の脳裏に焼き付いた、数え切れぬ人の死 弟の小さな手は決して離さず(2020年6月24日配信『沖縄タイムス』)

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沖縄戦で命を奪われた母ウシさんと当時7歳だった弟保善さんの名前が刻まれた「平和の礎」で思いを語る金城保盛さん=19日、糸満市摩文仁

[戦後75年の証言 語りつくせぬ記憶](2)

 生き残ったのは、5歳の弟と2人だけ。互いの小さな手を離さぬよう握り合い、逃げ惑う大人たちの後を追うことしかできなかった。無残な遺体、傷つき苦しむ人々を見ても気にする余裕はない。母や弟、祖父の死さえ、「悲しんだのかどうかも覚えていない」。

 ■凄惨な光景

 1945年6月、真壁村真栄平(現沖縄県糸満市)。当時9歳で米軍の銃弾に家族を奪われた金城保盛さん(84)=南風原町=は、三男の保信さんと戦火を逃げ惑っていた。凄惨(せいさん)な光景、遺体の臭いなど言葉にできない数々の体験は鮮明に覚えているが、これまで、家族にもほとんど話せていない。

 28歳だった母ウシさんは、家族一緒に隠れた大きなガジュマルの根元で保信さんを抱いたまま亡くなっていた。当時7歳の次男保善さんは、4人で潜んだ馬小屋の中で祖父と共に即死。母はすぐそばで、保善さんと祖父は数メートル向かい側に座ったまま、息絶えた。

 最初に亡くなった母の妹は埋葬できたが、「母や弟、祖父はそのまま」。子ども2人では、どうにもできなかった。厳しくも子ども思いの母、けんかはしても仲良しの弟。戦後すぐ、遺骨を探したが、ガジュマルも馬小屋も跡形も無く、すべて焼け野原になっていた。

 ■激戦地さまよう

 父は徴兵されて、母と3兄弟の家族4人。艦砲射撃が激しくなる前の3月に親戚のいる玉城村船越(現南城市)へ避難していたが、4月下旬か5月からは母の妹とその2歳前後の娘、祖父を含む7人で激戦地へと追い詰められていった。

 「知念半島は爆撃しないから向こうへ逃げろという感じの米軍の宣伝ビラがあったが、日本兵が『1カ所に集めて皆殺しにされる』というから逆へ逃げた」

 雨の中、新城から富盛へと逃げた時、150メートルほど前の日本兵2人に艦砲射撃が直撃した。初めて見た人の死。「人の形は残ってるがほとんどバラバラ。水たまりが血に染まった」。壕を見つけても「死体だらけ」で入れず、岩陰など少しでも安全な場所を求め、銃撃の中をさまよった。

 母たちを亡くした後も数え切れない死を見た。石に埋もれた状態で座る2人の女学生、ちぎれた足を引きずり戦車に隠れようとする日本兵-。当時9歳の脳裏に、鮮明に焼き付いた。

 母たちの遺骨も見つからないまま迎えた戦後75年。「慰霊の日」前に、今年も糸満市の「平和の礎」に刻まれた名前に触れ、「魂魄の塔」に手を合わせた。

 「本土側からすれば沖縄は捨て石。よくもあんな惨めな戦争をやらかしたと思うよ」。保盛さんは自宅での取材中、時折目を潤ませても、穏やかな語り口と表情は崩れなかった。ただ、テーブルを指でたたく音が静かに響いていた。






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Author:gogotamu2019
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