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沖縄戦証言に圧力 沈黙強いる行為許さず(2020年6月28日配信『琉球新報』-「社説」)

 沖縄戦の体験を証言した人の自宅を訪ね、とがめるような言葉で詰め寄るなど圧力をかける事態が相次いでいる。

 証言者を萎縮させ、結果として証言を封殺する動きは戦争の教訓継承を妨げ、表現の自由を侵すものだ。不当な圧力で沈黙を強いる社会は戦時体制に向かうかつての日本を想起させる。表現の自由を侵す行為は許されない。

 沖縄戦の記録映像で映し出される「震える少女」として名乗り出た女性に対して、知らない男性が自宅を訪れ「どういうつもりか」と詰め寄った。座間味村での「集団自決」(強制集団死)について母親の手記をまとめた研究者は職場への嫌がらせの電話や自宅への訪問があった。「集団自決」の生存者は黒ずくめの男性2人が自宅を訪れ、「追い返したが、恐怖心が残った」と話す。

 体験者だけではなく、過去には「集団自決」を題材にした小学校での創作劇に対し、抗議や中止を求めるメールや電話が十数件寄せられた事例があった。

 言うまでもなく、憲法21条の保障する「表現の自由」は民主主義の根幹を成す権利である。戦前の日本にこの権利はなかったといってよい。

 大日本帝国憲法は、表現の自由はあくまで「法律の範囲内において」と記され、さまざまな法で制限された。特に1925年に制定された治安維持法は法改正を繰り返し、対象を一般市民にまで広げ、思想・言論の弾圧に利用された。さらに国民全体が相互に監視し合い、ものが言えない社会をつくり出した。政府や軍部には、強まる戦時体制のなか、戦争遂行の妨げになるわずかな動きでも封じたいという思惑があった。

 民主政治は誰もが自由に政治的意見を述べることができて初めて成り立つ。日本国憲法で認められた表現の自由は、米国統治下の沖縄では長く許されなかった。表現の自由は沖縄の先人たちが体を張って獲得した重要な権利だ。

 資料が乏しい沖縄戦の実相を把握するために、体験者の証言は重要である。複数の証言を付き合わせることでより多角的になり、資料価値は高まる。

 体験者の証言は、大江・岩波訴訟の最高裁判決でも示された通り、オーラル・ヒストリー(口述証言)の資料価値は法廷で認められた。連綿と紡いできた沖縄戦の証言の蓄積がきちんと評価されている。

 他人の自宅を訪問してまで圧力をかけた人たちの目的は定かではない。戦争体験の記憶の継承を、敗戦の記憶を呼び覚まし国家をおとしめると考えているとすれば、主権者である国民を冒とくする行為である。戦争に突入した「いつか来た道」に通じる。
 
 だからこそ沖縄戦の記憶を風化させてはならない。不当な圧力には毅然(きぜん)とした対応を取り、証言者の声に耳を傾け、歴史の教訓に学ばねばならない。



[第32軍壕保存・公開]沖縄戦の実相を後世へ(2020年6月28日配信『沖縄タイムス』-「社説」)

 首里城の地下に掘られた旧日本軍第32軍司令部壕は沖縄戦を語る上で「要」となる戦争遺跡だ。首里城再建の機会に、公開実現へ向けた議論を進めてもらいたい。

 玉城デニー知事は、那覇市の要請に応え、32軍司令部壕の保存・公開へ、本年度中に専門家らによる新たな検討委員会を発足する考えを示した。壕の保存・公開や平和発信の在り方を、市と共に検討するという。

 32軍司令部壕では、牛島満司令官らが、本土防衛の時間稼ぎのための「捨て石作戦」を展開した。南部撤退を決めたことで、多くの住民が巻き添えになった。

 沖縄戦の実相を伝える重要な戦争遺跡として保存・公開が長く叫ばれてきたが、主に安全面の理由で、今日まで実現していない。

 1960年代、那覇市などが2度、調査や復元工事を実施。落盤が発生して、復元を断念した経緯がある。

 90年代には大田昌秀県政が「平和の礎」「県平和祈念資料館」とともに政策の3本柱に据え、試掘調査を実施。保存・公開検討委員会が、壕に沿って「公開坑道」を造り、展示場にする案を発表したが、県政交代で実現されなかった。

 昨年の首里城火災を機に再び、保存・公開を求める世論が高まっている。

 那覇市議会は26日、「沖縄戦の『生き証人』といえる存在」だとして、首里城の再建と併せて、32軍司令部壕の保存・公開を県や国に求める意見書を全会一致で可決した。

 与野党を超えた全会一致の決議の意味は大きい。

■    ■

 32軍司令部壕は総延長およそ1キロ。最も深い所は地下30メートルになる。

 入り口は全部で五つあるが、現在、開いているのは首里金城町の第5坑口だけだ。

 軍が撤退する時に爆破し、内部は崩落している。酸素濃度の問題もある。

 安全面の問題をどうクリアするかが最大の課題になる。 専門家の間では、全面公開は困難だという見方が大勢を占める。だが、技術が進んだ今、何らかの方法で公開できる道は探せるはずだ。

 「語り部」としての32軍司令部壕の役割は大きい。実現へ、さまざまな知恵を結集したい。

 整備にかかる費用をどう捻出するかも課題になるだろう。

 県民のコンセンサスも重要だ。県議会や市町村議会の決議が後押しとなる。

■    ■

 南風原町が戦争遺跡として全国で初めて文化財指定した「沖縄陸軍病院南風原壕群」の20号壕は保存・公開され、中に入ることができる。

 狭さ、暗さ、暑さ、湿っぽさが五感で感じられ、沖縄戦がリアルに迫る。「場」が持つ力は想像以上に大きい。

 本紙と朝日新聞が実施した戦後75年のアンケートで約6割が「沖縄戦の体験が次世代に伝わっていない」と答えた。

 体験者がいなくなる時が遠くない将来やって来る。県には、復帰50年のプロジェクトとして、首里城再建と32軍司令部壕の一体的整備に取り組んでほしい。



名護小学校そばの「旭が丘」と呼ばれる小高い丘に沖縄戦の慰霊碑がある(2020年6月28日配信『沖縄タイムス』-「大弦小弦」)

 名護小学校そばの「旭が丘」と呼ばれる小高い丘に沖縄戦の慰霊碑がある。祭られているのは10代半ばで「護郷隊」に駆り出された95人。陸軍中野学校出身の将校に率いられ、北部の山々でゲリラ戦を担わされた

▼久高栄一さん(73)は慰霊の日に欠かさずこの碑を訪れてきた。長男兄の良夫さんを15歳で亡くしている。碑の建立者でもある隊長の人柄や功績をしのぶ考えを受け入れられないまま、もはや限界と今年は足を運ばなかった

▼召集後、良夫さんが殴り合いの「訓練」をさせられているのを見て、父は一度、家に連れ帰っている。上官に再び連れ戻され、やがて山中の戦闘で焼き殺されたとされる。遺骨はない。戦後、自宅を訪ねてきた隊長に、母は半狂乱でつかみかかったという

▼隊長自ら書いたとされる碑文には、護郷隊の戦果が揚々とつづられている。少年たちの死をたたえ、責任をあいまいにする。それでは兄が浮かばれないと栄一さんは思う

▼明け方まで、戻り梅雨のようだった今年の慰霊の日。旭が丘では、日の光が朝露を照らしていた。じりじりとセミが鳴き始め、ゆっくりとチョウが舞う。部活動らしき管楽器の音色が遠くに響く

▼子どもたちが国のために死んで誉れとなる、まやかしの正義などいらない。碑に刻まれた一人一人の名をたどり未来に誓う。





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