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水戸空襲から75年 過去への内省深めよう(2020年8月2日配信『茨城新聞』-「論説」)

 第2次世界大戦時に水戸市が米軍による大規模な空襲に遭ってから75回目の夏を迎えた。街が焼き尽くされ、多くの犠牲者を出した空襲の悲劇は水戸の歴史に深く刻まれている。

 水戸市史によれば水戸空襲は8月2日午前0時31分に始まり、同2時16分に終わった。1時間45分の間に投下された爆弾は、市民1人当たりにすると約17キロ。罹災(りさい)戸数は全市戸数の約90%、罹災人数は全市人口の約80%に当たり、「水戸市はそのほとんどが焦土と化した」と記している。死者も「300人をかなり上回る数であることが確認されている」。

 水戸空襲は終戦のわずか2週間前のことだった。同市史は「もし日本がポツダム宣言が発せられたときに降伏していれば、水戸空襲による被害はこうむらないで済んだ犠牲であった」と記す。

 75年前、県内で犠牲者を出したのは水戸市だけではなかった。土浦・霞ケ浦空襲、日立空襲、日立・勝田への艦砲射撃、日立空襲と、大規模な空襲や艦砲射撃は続き、大きな災禍を経験した。茨城県史によれば、県内で「最大の被害を受けたのは日立地域」だった。軍需工業都市として発展していた日立地域は高性能爆弾による爆撃、艦砲射撃、焼夷(しょうい)弾じゅうたん爆撃と3種類の大規模な攻撃を受け、壊滅的な打撃を被った。艦砲射撃による死者は「正確な数は不明」となっているが、数百人に上ると見られている。

 悲惨な戦災の記憶は本県の歴史の中でも特筆すべきこととして深く刻まれ、いまも遺族たちの心に深い傷跡を残している。だが、戦争は決して遠い過去のものではない。大国間の対立激化や自国第一主義の台頭などを背景に、領土問題などで武力による解決という選択肢は、今日の世界も常にはらんでいる。戦争体験者が年々減少し、記憶が薄らいでいる中で戦禍に倒れた人びとを追悼するとともに、過去への内省を深め、あらためて不戦を誓いたい。昭和から平成、そして令和へと時代を経ても隣国との深刻な不和が影を落とし続けているのを見ても、ひとたび戦火を交えれば、その後始末がいかに困難であるかを物語っている。一度でも突き進めば修復するのに何世代にもわたるのが戦争の宿命だ。それを忘れてはならない。

 多くの犠牲者を出した空襲から75年の月日を振り返り、日本近現代史が専門の茨城大学の佐々木啓准教授は「戦争をしたくない、戦争は嫌だという思いは、日本人が自身の過去をある程度反省していることの反映であり、大事にした方がいいと思う。戦争はいけないという教訓は立場を超えて引き継がれている」と語る。しかし、「この75年の平和はカッコ付きの平和」とも指摘。戦後、日本は直接的に戦争はしなかったが、ベトナム戦争や湾岸戦争などにさまざまな形で関わらざるを得なかったのも事実である。

 1国だけの平和などあり得ない。過去になぜ日本は過ちを犯したのか。日本がたどった道を常に検証し、教訓を共有しなければ、戦争の不毛さだけを説いても再び同じような過ちを繰り返さないとは限らない。過去と真摯(しんし)に向き合い、歴史に学ぶ必要があるのは政治家だけではない。メディアに携わる私たちも含め、国民一人一人が過去の歴史と対話し、真の平和の姿を問い続け、戦争の萌芽(ほうが)を摘み取る努力が常に必要とされる。



水戸空襲

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 水戸駅前1945(昭和20)年6月半ばまでに、B29の爆撃によって大都市が焦土になった後、地方の中小都市に対しても徹底した焼夷弾爆撃が行われました。
 昭和20年8月2日に空襲を受けたのは、水戸・富山・八王子・長岡の4都市でした。水戸が空襲の目標に選ばれたのは、アメリカ軍の資料によれば、「常磐線の輸送上の基地であり、日立の工場のための労働力の供給源で下請けの中心だったから」だそうです。

 マリアナ基地を飛び立った167機のB29のうち160機が房総半島から水戸に侵入しました。水戸への空襲は昭和20年8月2日午前0時31分から同2時16分までの約1時間45分続きました。爆撃の高度は約3,700~4,600メートルで、投下された爆弾の合計は、約1,145トンにのぼりました。この空襲で水戸市街のほとんどは焦土と化し、死者は300人を上回りました。写真は、戦災直後の水戸駅前で、右奥には焼け焦げた銀杏坂の大銀杏の姿が見えます。(写真:水戸空襲戦災誌より 提供 外山寿美子)

水戸市HP➡ここをクリック

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空襲で焼失した水戸城の三層櫓

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Author:gogotamu2019
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