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よみがえるあの日の戦慄…米爆撃機乗員親族から写真入手 「加治木空襲」後世に(2020年8月14日配信『毎日新聞』)

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空襲を受ける鹿児島県旧加治木町(現姶良市)=今吉孝夫さん提供

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今吉孝夫さん=本人提供

 太平洋戦争末期の1945年8月、鹿児島県旧加治木町(かじきちょう。現姶良市=あいらし)で28人が亡くなったとされる「加治木空襲」に巻き込まれ、旧制中学の同級生らを亡くしたさいたま市の元会社役員、今吉孝夫さん(88)が当時の空襲の瞬間をとらえた写真を入手した。空襲被害を後世に伝えようと記録や関係者を探し、ようやくたどり着いた当時の米軍爆撃機乗員の親族から譲り受けた。今吉さんは「若い人に戦争と平和を考えるきっかけにしてほしい」と話す。

 加治木町は45年8月11日午前10時半ごろ、米陸軍第5航空団第3爆撃機群団の空襲を受けた。今吉さんらは当時通っていた旧制加治木中で逃げ惑い、自身は無事だったが同級生ら15人が亡くなった。春先の空襲でも生徒1人が亡くなっていた。

 戦後、メーカーに勤務していた今吉さんの元に同窓会の冊子が送られてきたのは50代半ばの頃。写真に写っていた母校の犠牲者慰霊碑には空襲で16人が亡くなったはずなのに15人の名前しかなかった。「そんなはずはない」。学校に問い合わせたところ1人が漏れていた。

 身近な戦争の歴史が正しく伝えられていないことに今吉さんは衝撃を受けた。「50年後、100年後の人たちに間違った情報が伝われば、それが事実として定着する。加治木に限らず空襲の死者が実際より少なく伝われば『戦争は大したことない』という誤ったメッセージになりかねない」

 当時、米国に駐在していた今吉さんは人づてに下院議員を紹介してもらい、米空軍基地に保管されていた米軍の報告書を入手。自分たちを襲ったのが第3爆撃機群団であることを初めて知った。その後も関係者を訪ね歩き当時の空襲関係の資料を集め続けた。10年ほど前に群団の隊員リストを入手し、手紙を出したところ爆撃機乗員の息子ウィリアム・スウェインさんから返信があった。

 スウェインさんも父が関わった第3爆撃機群団の資料を収集しており、今吉さんとの交流が始まった。2018年には今吉さんの誘いで来日。さいたま市の今吉さん方で語り合った。

 「空襲で私の友達も亡くなった。悲しみは今も消えない」。今吉さんがそう伝えるとスウェインさんも「殺し合いは米国人もしたくなかった。当時負った心身の傷で今も苦しむ元軍人もいる」と応じた。戦争は関わった誰もが苦しみ続ける。繰り返してはならないと2人は誓い合った。

 スウェインさんから写真が送られてきたのは19年3月。米軍が攻略した沖縄から飛び立った第3爆撃機群団が加治木や鹿児島県旧串木野町((くしきのし。現いちき串木野市)、阿久根町(現阿久根市)などを攻撃している空襲写真だった。家並みに立つ爆煙、もうもうと立ち上る黒煙に覆われた海べりの町。どの写真も日本の戦禍を生々しく物語っていた。あの日の戦慄(せんりつ)がよみがえった。

 写真は各市教委の担当者を驚かせる珍しいものだった。写真を分析した国立徳山工業高等専門学校(山口県周南市)元教授で日本の都市空襲を研究している工藤洋三さんは、第3爆撃機群団など沖縄から飛び立った部隊について「(専門家の)調査が始まってまだ日が浅く、写真の価値は高い」と話す。

 戦後75年。空襲をはじめとする戦禍の実相は戦争を知らない世代に伝わっているだろうか。今吉さんは危惧している。「この写真のように大事な資料はまだまだあるはずだ。戦争とは何だったのか正しく語り継ぐために、これからは行政も記録を発掘する努力をしてほしい」




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以上空襲を受ける鹿児島県阿久根町=今吉孝夫さん提供

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以上空襲を受ける鹿児島県串木野町=今吉孝夫さん提供


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空襲を受ける宮崎県油津町=今吉孝夫さん提供





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Author:gogotamu2019
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