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つなぐ沖縄戦(上・中・下)(2020年6月21~23日配信『西日本新聞』)

味方に殺されたなんて…沖縄戦、17歳少年兵の残酷な最期(2020年6月21日配信『西日本新聞』)

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高江洲義英さんが亡くなる約2年前に撮影した国民学校高等科の卒業写真。後列左から4人目が義英さん

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高江洲義英さん

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兄義英さんの名前が刻まれた慰霊塔の前で「70年かかったが真実を知ることができて良かった」と語る高江洲義一さん=沖縄県名護市

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「証言の中にある生きた証しに耳を傾けることが大切だ」と語る川満彰さん=名護市

つなぐ沖縄戦(上)

 茶封筒から取り出した一枚のモノクロ写真。丸刈りの少年とセーラー服を着た少女たちが緊張した面持ちで並んでいる。裏には「昭和拾八年卒業生 18名 三月廿八日 高江洲義英(たかえすぎえい)」と記されていた。

 「運良く焼け残った兄の写真。幼いでしょう」。那覇市の高江洲義一(ぎいち)さん(82)は写真を見つめながら語り始めた。兄は昭和18(1943)年、写真に写る仲間と国民学校高等科を卒業。1年7カ月後に少年兵となり、沖縄本島北部の山中で命を落とした。17歳だった。

 10歳離れた兄と遊んだ記憶はほとんどない。ただ、米軍が本島に上陸する数カ月前、訓練の合間に沖縄県東村の実家に一時帰宅した日ははっきりと覚えている。

 「当時珍しかった2色刷りの絵本を買ってきてくれてね。インキのにおいは頭を離れないさあね」。軍服姿の兄は軍靴を棒に引っ掛け、はだしだった。「靴擦れを起こしたんですよ。ほとんど履いたことがないから」。目の前の海で捕れたタコを湯がき、家族でつついたのが最後の晩餐(ばんさん)となった。

 戦後、兄は骨となって戻ってきた。砲弾が当たり破傷風で死んだと聞いた。「畑作業に出ては兄の帰郷を待ちわびた母の姿が忘れられない」。既に2人の子を沖縄戦で失っていた母は頭蓋骨を抱いて泣き崩れた。

 沖縄では三十三回忌で供養を一区切りする風習がある。節目の1977年6月に営まれた慰霊祭で、いつもは冷静な父が取り乱した。兄の元上官に詰め寄り「子どもを殺したのにあなたは生きているのか」と泣き叫んだ。「殺した」という言葉が心に残り続けた。

 2013年、本島北部を巡る平和学習バスツアーに参加した。兄が死んだとされる恩納村に近づき、座席から身を乗り出してガイドに尋ねた。「兄は護郷隊でした。どこで、どんな死に方をしたか知りませんか」

 この時、ガイドを務めていたのが名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さん(60)。彼は、まさに少年ゲリラ部隊「護郷隊」の調査中だった。 

味方に殺されたなんて

 「故郷は自ら護(まも)る」

 75年前、旧日本軍がこう命名した護郷隊の実態は少年兵によるゲリラ部隊だった。大本営は沖縄戦を本土決戦までの時間稼ぎと位置づけ、少年兵は沖縄と一緒に「捨て石」にされる。

 護郷隊には14~19歳の少年約千人が集められた。本島北部の山間部に潜み、米軍の進路を防ぐため橋を爆破するなどゲリラ戦を展開。死も恐れない少年兵は、米軍から「ゴキョウタイは手ごわい」と恐れられた。激戦に身を投じた隊の犠牲者は約160人に上った。

 「兵力不足は深刻で、召集の多くは法令違反だった」。名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さん(60)はこう指摘する。

 召集は陸軍省令に基づき行われた。1944年11月に19歳から17歳に引き下げられ、翌12月からは志願すれば14歳から召集を可能にした。ただ、施行前の召集や親の承諾など必要な手続きを取らないことが多かったという。

 川満さんは米軍嘉手納基地の町、コザ市(現沖縄市)で生まれ育った。「地元の子はみすぼらしい服に島草履。米軍の子はカラフルな服に革靴。フェンスの向こうは別世界さね」

 団体職員の傍ら、30代で戦跡を訪ねる平和ガイドを始めた。沖縄の歴史を学ぶため44歳で沖縄大大学院に入学。2008年に市教委の嘱託職員になり、護郷隊の調査に取りかかった。

 先行の研究は証言の収集が不十分で「点と点の状態」。戦没者名簿や、護郷隊の結成に関わったスパイ養成機関・陸軍中野学校OBがまとめた記録から生き残った隊員、将校を探した。

 「10人殺したら死んでいいと教えられた」「爆薬を背負って戦車に体当たりを命じられた」「遅刻を理由に上官からスパイと見なされ、幼なじみに射殺された隊員がいた」-。目の前の友の死に何も感じなくなったとの証言もあった。

 調査から7年。ある元隊員が「軍医が少年を射殺した」と話した。軍医は少年に毛布をかぶせて拳銃を発射。1発目が外れると少年は毛布を払って笑いだし、2発目で絶命したという。

 少年の名は高江洲義英(たかえすぎえい)。バスツアーで熱心に質問した高江洲義一(ぎいち)さん(82)の兄だった。

 元隊員は、重い病気やけがを負った隊員は足手まといになるため、射殺されたと証言。遺族への説明については「そんな残酷なことはできない」と尻込みしたが、15年6月23日の慰霊祭で対面した義一さんに兄の最期を教えてくれた。

 その様子をテレビで見たいとこから、義一さんに連絡があった。「やっぱり知らなかったのか」。いとこの兄は護郷隊から生還し、義一さんの父に全てを話していたという。三十三回忌で父が取り乱した理由がようやく分かった。「味方に殺されたなんてショックさ。でもモヤモヤは晴れた」

 川満さんは証言は記録するだけでなく、どう生かすかが重要と思う。「一人一人の生きた証しに耳を傾けると死者の名前がただの記録じゃなくなる。戦争の愚かさが、より理解できる」

    ◇    ◇   

 沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結して75年。23日に慰霊の日を迎える。市民約9万4千人を含む約20万人が犠牲になった地上戦の体験者は減り、県民の9割は戦後生まれになった。体験者の思いをどうつなぐのか。戦後世代の取り組みから沖縄戦と平和を考える。 (那覇駐在・高田佳典)



地中に眠る形見捜して 戦後世代が担う収集作業(2020年6月22日配信『西日本新聞』)

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地中に眠る遺骨や遺品を捜す南埜安男さん。年間250日はガマや壕に入る=沖縄県糸満市

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伯父の遺影の前で74年ぶりに故郷に帰った形見の砥石を手にする山口栄治さん=熊本県あさぎり町(本人提供)

つなぐ沖縄戦(中)

 熊本県あさぎり町で建設業を営む山口栄治さん(64)の元に昨夏、小包が届いた。中には丁寧に緩衝材でくるまれた砥石(といし)が一つ。1945年に沖縄戦で戦死した伯父勇さん=享年(30)=の遺品だった。

 砥石には名字の「山口」と、集落にあった「熊本縣球磨郡深田 小枝亭留所」の文字が刻まれていた。集落の周辺で沖縄に出征したのは伯父だけだった。

 父は自身の戦争体験も、兄である伯父のことも話すことはなかった。それでも74年ぶりに帰郷した形見を手にすると涙があふれた。砥石は伯父の遺影の前に供え、毎日手を合わせる。「何としても故郷に帰る、という執念を感じた。伯父の生きた証しです」

 沖縄戦最後の激戦地となった糸満市の北東部。サトウキビ畑に囲まれた農道の先にこんもりとした森がある。やぶをかき分け100メートルほど進むと、戦時中に掘られた避難壕(ごう)へ通じる穴がぽっかり口を開けていた。スコップを持ち、ヘッドライトの明かりを頼りに暗闇を這(は)う。住民たちが身を寄せ合った空間は今、粘土質の赤土に埋まっていた。

 「まずは75年前の避難所の跡まで掘る。遺骨や遺品捜しは地道な作業よ」。那覇市の南埜(みなみの)安男さん(55)は土をひたすらかき出し、汗を拭った。昨年は、別の壕で見つけた砥石を山口さんに送り届けた。

 南埜さんは堺市出身。16年前から毎年観光で沖縄を訪れていたものの、それ以上の縁はなかった。

 転機は6年前。那覇市の居酒屋で、今も多くの遺骨が眠っていると聞いた。「終わってる話やと思ってた。知らんかったらしゃーないけど、知っててやらんのはあかんやろ」

 妻と離婚し身軽な独り身だった。仕事に不満はなかったが、やりがいがあったわけでもなかった。「続けていれば悠々自適やったけど、思い立ったらすぐ行動せんと気が済まん性分なんよ」。49歳で大手運送会社を退職、沖縄に移り住んだ。マンションを売り払った貯金を取り崩しながら年間250日、壕やガマ(自然洞穴)に足を運ぶ。

 遺骨収集は戦後間もなく、遺族や住民有志が始めた。南埜さんが活動に加わったころ、中心にいた沖縄戦体験者の男性は4年前に引退。今は戦後世代が担う。

 「山や森の地面にある遺骨は捜し終えたと思うけど、大きな岩の下や人が入られへん所にはまだまだ眠ってる」。昨年度は59柱が見つかり、県の推計ではまだ約2800柱が土の中だ。

 見つかった遺骨は戦没者遺骨収集情報センター(糸満市)に引き渡す。国が2003年度から始めたDNA鑑定は、遺留品などで身元が確認できそうな場合に限られ、遺族に返還できたのは5柱だけ。南埜さんが見つけた約25柱も遺族に返せたのは1柱にとどまる。

 南埜さんは、遺品の調査にも力を入れる。名前があれば戦没者名簿や戦没者名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」(同市)を手がかりに遺族を捜す。「ガマに入っていない時間もやることは多い」。20個近くの遺品を届けた。

 戦争体験者は減り、戦没者のきょうだいや子世代も高齢になった。南埜さんは焦りを募らせる。「遺骨にしても遺品にしても本来は地中にあったらあかんやろ。はよせんと時間はない」 (那覇駐在・高田佳典)



「戦世」終わらせるために 沖縄戦生き抜いた91歳、バトン託す(2020年6月23日配信『西日本新聞』)

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「戦争体験者がいなくなっても平和の継承活動は続けなければならない」と語る元白梅学徒隊の中山きくさん=那覇市

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白梅学徒隊戦没者の慰霊碑を磨く若梅会のメンバー=沖縄県糸満市

つなぐ沖縄戦(下)

 16歳だった女学生は91歳になり、沖縄戦を生き抜いた友が一人、また一人と逝く。「戦争体験者がいつかゼロになるのは当然よ」。語り部の中山きくさん=那覇市=は淡々と話す。「だけど、本当に平和な世の中にはなっていないわよね。だからバトンタッチね」

 昨春、平和学習を通じて交流があった20~50代の男女9人に活動を託した。メンバーは絵本作家や教員、大学生とさまざま。看護要員として動員された中山さんら旧制県立第二高等女学校生が白梅学徒隊と呼ばれたことから、若梅会とした。

 9人は中山さんの体験や平和への願いに何度も耳を傾けた。

 中山さんは野戦病院で負傷兵の手足の切断を泣きながら手伝うなど、激戦地に駆り出された。戦況が悪化した1945年6月4日、学徒隊に解散命令が出る。

 軍から渡された自決用の手りゅう弾を抱え、砲弾が飛び交う沖縄本島南部を逃げ回った。追い込まれて自決しようとし、幼なじみに止められた。学徒隊56人のうち22人が命を落とした。

 「生き延びたことが申し訳ない」。自らを責め、戦争体験を語ることはなかった。夫の転勤で住んだ広島、長崎で被爆者に触れ「語らなければ、戦争の悲惨さも友の死もなかったことにされる」と知る。95年に体験をまとめた本を出版、語り部も始めた。

 県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。戦後75年を経ても辛苦は続く。先祖代々の土地を奪った米軍基地は新たな戦争の出撃拠点になった。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先、名護市辺野古沖の埋め立ても強行されようとしている。

 若梅会の9人は、それぞれの思いを胸に抱えながら活動に参加した。

 2004年、普天間飛行場に隣接した沖縄国際大に米軍ヘリが墜落炎上した事故。大学進学で京都市から移り住んでいた北上田源さん(38)=沖縄市=は事故当夜、現場に行こうとして警察に阻まれた。遠巻きにして見た現場を闊歩(かっぽ)していたのは、警察の立ち入りすら拒んだ米兵だった。

 「本土とは違う基地の町を初めて実感し、沖縄の人が背負う恐怖が自分のものになった」。今は大学の非常勤講師として、学生と基地問題を考える。

 会社員伊波春奈さん(24)=嘉手納町=の祖母は、沖縄戦で両親と5人のきょうだい全員を失い、生家は米軍嘉手納基地にのみ込まれた。「沖縄戦と基地問題は地続き。この島に生まれた者として一生向き合わないといけない」

 「重いバトンを受け取った」。若梅会代表で雑誌編集長の川元千寿さん(51)=那覇市=はこう話す。

 今年は新型コロナウイルスの影響で、多くの慰霊祭が中止や規模縮小に追い込まれ、体験者が語る機会もほとんどなかった。「体験者なき時代が目前に迫る中、新型コロナは継承の風化を現実のものとして突き付けた気がした」

 23日にある白梅学徒隊の慰霊祭には中山さんとともに参列する。「沖縄の戦世(いくさゆ)は終わってない」。中山さんの言葉を継承し、若梅会が「平和の道しるべ」の一助になる決意で-。

(那覇駐在・高田佳典)








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