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「飛行機を手で押した」空襲、特攻兵の姿…81歳語る当時(2020年8月17日配信『西日本新聞』)

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目達原飛行場の正門跡

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かつて誘導路だった道を歩き、当時を振り返る北村邦弘さん

 太平洋戦争中、目達原飛行場があった佐賀県吉野ケ里町。飛行場の北西、同町横田地区から南に向かって飛行機の誘導路があったという。8月上旬、「子どもの時に飛行機を手で押していた」と話す同町の北村邦弘さん(81)と現地を巡り、当時を振り返ってもらった。

 JR吉野ケ里公園駅の北約800メートル、旧三田川町と旧東脊振村の境からスタート。かつての誘導路を北に歩いた。「この辺は周りに山があって、そこに兵舎があった」。飛行場の兵隊は三角兵舎で暮らしていた。

 さらに歩くと団地造成された住宅街にさしかかる。誘導路沿いには上空の敵から見つからないよう飛行機を隠すための壕があった。

 「昔はアカマツの松林があった。そこに飛行機は少なくとも5機くらいはあったと思う。道路も今よりは2メートルくらい広かった」

 誘導路の近くに住んでいたので、飛行機が降りてくると地域の子どもと一緒に押すのを手伝った。当時は5、6歳。「飛行機を(壕に)入れるために押していた。兵隊から『乗っか?』と言われ、操縦席に乗せてもらいよった」と懐かしそうに語る。

 北村さんの父は自動車で物資の輸送などをしていた。飛行場まで一緒に乗って、お菓子をもらうのが楽しみだったという。

 一方で、戦禍はこの地にも及んだ。米軍の機銃掃射に遭い「弾がビュービュー飛んでくるから怖かった」と語る。遠くを指さして「あそこに記念碑があって夜反射するから狙われた。弾の痕が今も残っている」と教えてくれた。

 1945年7月28日、飛行場周辺を米軍が空襲した。三田川町史によると午前2回、午後1回あり、3人が亡くなった。

 「(街が)どんどん燃え、傷ついた人が運ばれていた。憲兵に見つかるとやかましく言われるので隠れて見ていた」

 横田地区の西往寺には特攻兵が宿泊していた。出撃前に家族と思われる人が面会に訪れていたのを見たという。みんな若く、「普通の兵隊はゲートル巻いて地下足袋だったけど、特攻隊は長靴。絹を巻いて飛行帽をはめて、子どもながらにかっこよく見えた」と覚えている。

 三角兵舎はなくなり、当時をしのばせるものは、かつての誘導路沿いに残っていない。北村さんは言う。「昔の面影は全然ない。当時のことを覚えている人もほとんどいなくなった」。戦後75年、時の長さを感じさせる。

   ◇    ◇

18カ月で完成若者たちが訓練

 目達原飛行場は1943年10月に完成した。三田川町史や吉野ケ里町誌によると、41年に約200ヘクタールに及ぶ飛行場の建設計画が発表され、わずか18カ月の工事で出来上がったという。地域内の住民は別の土地に強制移転させられた。

 大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)の分校で、飛行機ごと体当たりする特攻隊の若者たちが訓練を受けた。

 終戦後の54年、飛行場跡には陸上自衛隊目達原駐屯地が開設された。現在、駐屯地の南西には「大刀洗陸軍飛行学校目達原教育隊」と書かれた飛行場の正門跡が残る。また、駐屯地内の広報資料館には目達原から出撃した53人の名簿など特攻隊の資料や戦時の遺留品が展示されている(見学には事前申し込みが必要)。 (北島剛)




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