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「特攻隊養成所」が八女にあった 茶畑地帯に八角形の飛行場(2020年8月18日配信『西日本新聞』)

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測量士として飛行場建設の総監督を務めた父と八女に移り住んだ七字さん。自宅そばには、飛行場との境界線を示す「運輸通信省」の境界標が残る

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八女市の一角に残る飛行機の格納庫跡

終戦前年に完成、戦後は農地に

 茶畑が広がる福岡県八女市内の一角に、かつて特攻隊を養成する飛行場があった。通称「岡山飛行場」は、終戦の前年に完成。一時は数百人の生徒がいたとされ、訓練後は知覧や沖縄から特攻に加わった。戦後ほどなく農地となり、数年で姿を消した飛行場。数少ない痕跡を探して、跡地を歩いた。

 飛行場があったのは、八女市龍ケ原を中心とした一帯。市中心部からほど近く、九州自動車道が南北に貫き、茶畑や工場が広がる。その一角に、高さ2メートルほどの塀と、塀を支えるように一定間隔で並ぶ三角形のブロックがあった。

 「コンクリートの質が悪く、かなり崩れていますね」。案内してくれた市文化振興課の中川寿賀子さん(60)によると、15年ほど前まで「卒業生」が訪ねてくることもあったという。当時も飛行場の変遷に詳しい近隣住民はほとんどいなかった。「機密扱いで、詳しいことは知らされなかったのでは」と推測する。

 飛行場は1944年4月に運輸通信省航空局の乗員養成所として開所した。本来は郵便機などの「民間パイロット」を養成する施設のはずだが、戦争末期で、実際は異なったようだ。当時の西日本新聞は「われら皇恩に報いるは大空に誓死あるのみ」という入所生総代のあいさつを伝える。ほぼ同時期に、飛行場には大刀洗陸軍飛行学校の筑後分教所も開設されており、陸軍の傘下に置かれていたことが想像される。

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 当初の様子を知る人を尋ねた。八女市亀甲の七字健郎さん(88)は、国民学校6年生の時に八女に移り住んだ。父・栄光さんは軍属の測量士として、飛行場建設の総監督を務めた。集落を移転させ、丘を削る大工事。「400町(約4平方キロ)を整地したと聞きます。小中学生や近隣住民が動員され、朝鮮半島からも100人ほど来ていた」。重機はブルドーザー1台のみ。ほぼ人力だけに頼ったという。

 東西南北を走る滑走路を備えた八角形の敷地を土手で囲み、その南西、今の西日本短期大付属高がある場所に兵舎を建てた。七字さんも近くで暮らしていたが「訓練生と接触する機会はなく遠目に見ていた。みな2、3歳上でしょうか。若かった」と振り返る。「赤とんぼ」と呼ばれる練習機が30機ほどあり「空襲が激しくなると、飛行場の外に広がっていたハゼ畑の中に飛行機を隠していた」。

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 飛行場には少年飛行兵もいた。福岡市中央区の中牟田久敬さん(88)はその一人だ。45年3月、大刀洗飛行場が米軍の空爆を受けると「岡山飛行場や知覧に特攻隊員を集めていた」と話す。出撃前夜、風呂場で先輩飛行士の背中を流すのも少年兵の役目だった。「じっと押し黙っていた。どんな思いを抱えていたのか」

 岡山飛行場で訓練を終え知覧から特攻に出撃した記録は残っているが、終戦間際には八女の地からも特攻に出撃していたのだろうか。それとも知覧などに向かい、即、出撃が決まったということか。

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 終戦後、飛行場は農地になり、引き揚げ者に分配されたという。七字さんの父は戦後、建設会社を興し、飛行場跡地の分割も請け負った。ただ「農業がうまくいかず、定着した人は少ないと聞いています」。わずか数年で姿を消した飛行場。今や面影はほとんどないが航空写真では飛行場の形状が見て取れる。まるで忘れ去られることに抵抗するかのように、八角形のラインがくっきりと。

(丹村智子)



「吾、明日、出撃す」特攻前夜、若き隊員がつづった遺書(2020年8月18日配信『西日本新聞』)

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末藤肇少尉が書いた遺書。自身の心情などが詳細につづられている

作戦内容や“秘密の行動”詳細に

 「今、淡暗き国分基地の電燈(でんとう)の下にてこの遺書を認(したた)む」-。鹿児島県の国分基地から出撃、米艦に特攻し戦死した福岡県大牟田市出身の末藤肇(はじめ)少尉=当時(24)=は、死を前にした特攻前夜の心境を8枚の便箋につづった。戦後75年を経て初めて公開された遺書は、検閲を免れるよう手配して遺族に届けられたとみられる。古里や家族への思いだけでなく、作戦内容や“秘密の行動”まで詳細につづられている。

 「書字乱雑になりたるも吾(われ)の心の動揺にあらず。心は冷静にして沈着たり。父のふだんの訓(おし)えのとおり、今、冷静たり」

 1945年4月5日午後10時25分。特攻出撃を翌日に控えた末藤少尉は、遺書を書き始めながら、自らに言い聞かせるように「冷静」と繰り返す。

「敵艦に体当たりを敢行す」

 「吾、明日、特攻隊の一小隊長として出撃す 本懐之(これ)にすぎるものなし」

 「四月六日の午後三時より五時の間に敵艦に体当たりを敢行す。驕(おご)れる敵は遂(つい)に我(わ)が沖縄にその魔手を指しのべたり」

 遺書は弟の是明さん(77)=大牟田市甘木=が、父與助(よすけ)さん(1980年に84歳で死去)から譲り受けた。戦後75年の節目に「戦争の悲惨さを忘れないでほしい」と公表を決めた。

 戦争資料の収集などに取り組む豊の国宇佐市塾(大分県宇佐市)の藤原耕さん(47)は「小官の遺品は戦友より送る筈(はず)なり」と書かれた一節を挙げ、「検閲されないことを前提に書かれたようだ。ここまで作戦内容に踏み込んだ記述は珍しい」と驚く。

 是明さんによると、末藤少尉は特攻に志願。訓練を受けた宇佐海軍航空隊(宇佐市)から45年4月5日朝に出発し同日、国分基地に到着した。

「大牟田上空を通過せしは小官」

 「四月五日午前十時頃、大牟田上空を十二機の編隊が通過せしを見られたれば、あれは小官の最初にして最後の故郷の大空の飛行姿なり」

 藤原さんはこの“告白”を「宇佐-国分の最短コースではなく、遠回りになる。燃料不足に苦しむ当時は許されないはず」と、遺書が検閲されなかった裏付けと指摘。その上で「コース変更は、死地に向かう前に古里を見たいという隊員の総意だったのでは」と推測する。隊には福岡出身の隊員が多くいたとみられ、可能な範囲で古里の上空を通れるよう極秘裏にコースを話し合ったとみる。

 「今咲き誇る桜花のごとく散りゆかん 『国の為(ため) 何か惜しまん若桜 散って甲斐(かい)ある命なりせば』」

 遺書の終盤にある辞世の歌。是明さんは、戦争に翻弄(ほんろう)された時代に心を向ける。「父は『桜を見ると肇を思い出す』と言って、庭の桜の木を切った。これを読むと、父の気持ちが身にしみる」

(立山和久)





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