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「山の手空襲」で両親ら亡くし、差別にも苦しんだ87歳男性 国提訴し敗訴「戦死と何が違うのか」(2020年8月18日配信『東京新聞』)

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疎開先で撮った父との最後の写真を手にする三宅駿一さん=東京都青梅市で(林朋実撮影)

 忘れられない光景がある。太平洋戦争末期のある夜のことだ。三宅駿一さん(87)=東京都青梅市=は、疎開先の埼玉県児玉町(現本庄市)の寺で、戦時中の供出で鐘が外された鐘楼のはるか向こうに、赤い山のようなものを見た。一緒に疎開していた友人たちと「きれいだな」「あれ、東京が燃えているんじゃないか」と言い合った。(林朋実)

 この記憶が、1945年4~5月、東京の山手地域をB29が襲った「山の手空襲」だったのか、何月何日だったのか、自分でも定かではない。だが、国民学校の担任の男性教師に言われたことは、はっきり覚えている。「おまえたちの帰る家はなくなったぞ」

 その言葉は、現実のものとなった。東京都麹町区(当時)に住んでいた両親と14歳の姉、5歳の末の弟を5月の空襲で亡くしたことを知った。

 疎開先を訪ねてきた祖父母は、三宅さんを避けるように、学校として使われていた寺の教員室に入った。しばらくして目を真っ赤にした寮母に呼ばれた。室内で祖父母はうつむいて座っていた。「何かおかしい」と思った時、教師から両親らの死を告げられた。前年8月から疎開して離れ離れだったためか、実感がわかず、涙はこぼれなかった。

 終戦後は東京・神保町で祖父母と暮らした。疎開して無事だった当時7歳の弟、10歳の妹も一緒だった。貧しくてかばんを買えず、ぼろぼろの風呂敷で中学校に通った。祖父の写真館を手伝うため、徐々に学校には行かなくなった。17歳の時、祖父が亡くなった。自分が大黒柱として働くようになって、初めて「親がいない」ということが身に染みた。

 借金しようとしても、誰も見向きもしてくれない。表向きは「大変ね」と声を掛けてくれる近所の女性が裏では「あの子にやるおコメはないよ」と言っているのを聞いた経験もある。「親がいないということで、ずいぶん差別を受け、みじめな思いをした」。

 祖父から両親らが亡くなった当時の詳しい状況を教えられたのは、終戦の数年後だった。祖父母は、両親が住み込みで働いていた写真館の地下室で、いすに座ったまま事切れた姉を最初に見つけた。がれきや灰を掘ると、父の背中が現れた。その下には末弟を左手に抱きかかえた母の亡きがらが横たわっていた。この時、母は妊娠していた。

 父は亡くなる直前、B29が墜落した現場の消火活動にあたっていたとの証言も近所の人から聞いた。戦時中の防空法は国民に空襲時の消火を義務付け、そのために逃げ遅れた人も多い。「父もその一人だったに違いない」。両親や姉弟は国策の犠牲になったとの思いが募っていった。
 2008年、国に空襲被災者、遺族への謝罪と賠償を求める裁判で原告の1人として東京地裁の法廷で証言した。結果は敗訴。旧軍人は補償され、空襲で生活を壊された民間人は救済されないことに今も憤る。「戦場で撃たれて死ぬのも、両親らのように空襲で死ぬのも、変わらない。こんな不公平はない」

山の手空襲 1945年4月~5月に東京の山手地域などが狙われた4回の空襲の総称。政府機関や金融、商業の中枢機関が集中する都心が被害を受けた5月25日の空襲は「とどめの空襲」とも呼ばれ、東京への最後の大規模空襲となった。最大時520機のB29が焼夷(しょうい)弾や爆弾を投下し、警視庁の調べで計7000人以上が亡くなった。



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  太平洋戦争の末期、昭和二十年五月、山の手地域に大空襲があり、赤坂・青山地域の大半が焦土と化しました。
  表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
  戦災により亡くなった人々を慰霊するとともに、心から戦争のない世界の平和を祈ります。
  港区政六十周年にあたり、この地に平和を願う記念碑を建立します。
平成十九年一月
港区赤坂地区総合支所
区政六十周年記念事業実行委員会





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Author:gogotamu2019
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