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身近な戦争の記憶(2020年9月2日配信『北海道新聞』-「卓上四季」)

 ゴーという音とキラキラ光るものが沢山みえました。屋根に何かふってきてバリバリこわれて、私は母にしがみついて妹は泣き叫び、祖母がどこかで何かを叫んでいました

▼札幌市の太田禮子さんの一文だ。3歳で経験した苫小牧空襲の記憶は現実感に乏しく、後に母親に確認するまで夢と思っていたこともあったという

▼苫小牧市統計書によると、市内では1945年7月14、15日、米軍機の機銃掃射や焼夷弾(しょういだん)投下で4人が死亡、11人が重軽傷を負った。家屋の被害も甚大で、祖父母が住む国鉄苫小牧駅官舎に身を寄せていた太田さんの記憶とも合致する

▼毎年8月が訪れるたびに思い出す恐怖。誰かに伝えなくてはいけないと感じていた。幸い1度きりの空襲だったが、新聞などで戦時下の体験を目にすると「戦争をしてはならない」という思いが募るそうだ

▼「陸軍登戸研究所の真実」(芙蓉書房出版)で元所員の伴繁雄さんは家族にも話さなかった人体実験について記述した。その重い口を開かせたのは、真摯(しんし)に耳を傾けた地元の高校生の情熱だった。二度と戦渦を繰り返してはならない。その一心だったのだろう

▼札幌市の藤巻陽一さんは戦後の厳しい食糧事情について、筆を執った。体験を語り継ぎたいと願っている人は、案外身近にいるのではないだろうか。思いが詰まった文章に、そう気づかされる75回目の戦後の夏の終わりである。



苫小牧空襲の記憶 次代に 市美術博物館で特別展示(2020年8月15日配信『北海道新聞』)

キャプチャ
苫小牧空襲で使われた弾丸などが並ぶ展示コーナー

 太平洋戦争末期の1945年7月、米軍機が苫小牧を攻撃した「苫小牧空襲」をテーマにした特別展示が、苫小牧市美術博物館(末広町3)で開かれている。

 空襲は45年7月14、15日の2日間にわたり、米軍の艦載機による製紙工場などへの爆弾や焼夷(しょうい)弾の投下、市街地への機銃掃射で住民に多くの死傷者が出た。同31日には米軍の潜水艦からの砲撃も受けた。

 展示では、空襲や砲撃に使われた弾丸や薬きょう、砲弾の破片など博物館の収蔵品が並べられ、苫小牧が戦場となった記憶を伝える。空襲があった7月14日に樽前山麓に墜落した米軍機の破片も展示され、戦争が国の区別なく人々に被害をもたらす事実を訴える。

 企画した小杉宇海学芸員は「戦後75年が経過し、当時を知る人が少なくなる中、苫小牧で起きた戦争を語り継ぐきっかけとしたい」と話した。

 会場は常設展示室内で8月末までの予定。問い合わせは同博物館(電)0144・35・2550へ。(鈴木雄二)

苫小牧市
 苫小牧市では1945年8月14日・15日に空襲があった。

 14日の空襲では、ニシタップ浜(現錦岡)で漁に出ていた漁民が4人空襲に遭い、亡くなった。また、苫小牧駐屯部隊が漁場に派遣していた兵士が1人亡くなったが、名前は不明である。

 また、論文「1945.7.14・15~苫小牧の空襲・戦後50年を考える~」によれば、王子製紙工場前にあった防空監視塔で14日に軍人が全身に銃撃を受け死亡したとされる。この事実を記している資料・文献は他には見つからなかった。

 15日には航空機乗員の犠牲者が出ている。四式爆撃機「飛龍」(キ-67)が樺太落合から長野県松本に向かう途中に千歳上空でグラマンの攻撃を受け、苫小牧市柏原の雑木林に墜落し、乗員7名のうち6名が死亡した。北海道空襲で日本軍の航空機が攻撃され墜落した唯一の事例であった。現地には「六勇士戦死の碑」が建てられ、いまでも地元の人たちによって慰霊されている。

【苫小牧空襲の犠牲者】
 氏名判明・・・民間4、船員0、軍人6
 氏名不明・・・民間0、船員0、軍人2

【主要参考文献】
・菊地慶一『北海道空襲 一九四五年七月十四・十五日の記録』(北海道新聞社,1995年)
・髙橋稔『とまこまいの石碑』(苫小牧郷土文化研究会,2001年)


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