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【戦後75年】 特攻同然に変更「突っ込みます」 サイパンに散った兄17歳(2020年10月14日配信『産経新聞』)

 太平洋戦争末期、銃撃隊から急遽、特別攻撃に加わって、17歳で亡くなった少年がいた。「海軍第1御楯(みたて)特別攻撃隊」の高橋輝美飛行兵長。本土に対する爆撃を阻止しようと、B29の発進基地サイパン島を攻撃、未帰還となった。「戦闘機乗りとして、お国のため、家族を守るためにもっと活躍したかったはず」と、残された妹が、戦後75年が経った今もなお、輝美さんの死を悼み、慰霊を続けている。  (高橋義春) 

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サイパン復仇攻撃

 香川県常磐村(現香川県観音寺市)出身の輝美さん。農家の三男として生まれ、旧制中学に入学するも昭和18年春、16歳で志願兵として山口県の岩国海軍航空隊に入隊。筑波(茨城県)、大分、台湾などを転戦後、19年11月26日、千葉県の館山基地から硫黄島(給油中継地)に向けて飛び立ち、翌27日、サイパン島に集結していたB29爆撃機を攻撃し、戦死した。

 “サイパン復仇(ふっきゅう)攻撃”ともいわれたというこの作戦。当初の予定では、隊員らは敵爆撃機を銃撃した後、反転し北に位置するパガン島に着陸し、潜水艦による救出を待つはずだったが、上官の一声で特攻同然の作戦に変わった。

 当時の偵察機の電信員がまとめた記録によると、作戦の打ち合わせ終了後、参謀の1人が、零戦隊員らに「パガンに戻るためには、零戦の燃料搭載量ではサイパン上空で5分間しか戦闘行動ができないが、どうするか」とたずねた。「突っ込みます」。隊員らは異口同音に返答したという。

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攻撃隊の最年少隊員

 戦闘機(零戦隊)11機による襲撃。しかも全弾撃ち尽くしたあとの捨て身の体当たり戦法は「4機破壊炎上、6機大破、23機損傷」(米側記録)したという。編成時は銃撃隊だったが、特攻同然だった同隊の戦功を全日本軍に知らせるさい、「第1御楯特別攻撃隊」と名付けられた。

 攻撃隊の最年少だったという輝美さん。海軍入隊後、手紙で家族の面会を断る代わりに、ほぼ毎月のように父親の喜市さんらあてにハガキを送ったほか、貯金を家族に送金していた。

 《自分の事は何んにも思わないで下さい。どうせ御国の為に打ち捨てた命ですから…。散ったならば喜んで下さい。きっと御家の名を汚さないような立派なる働きをしますから…》

 銃撃隊員から特攻隊員となった輝美さんの手紙の一部には、死を覚悟した決意がつづられていた。

 家族のもとに戦死の通知が届いた20年4月、村葬の際、母親のイワさんは参列した記者らの質問に「荒鷲の母です。私は泣きませぬ」と、日本軍の飛行隊の愛称「荒鷲」を名乗って気丈に語ったが、葬儀後、仏間で身をよじるようにして泣いていた。

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 輝美さんの妹、岡本喜美子さん(78)=堺市中区=は四男の高橋治さん(90)=滋賀県在住=や姉たちから当時のそんな母の様子を聞かされて育ってきた。輝美さんの出征当時はまだ乳飲み子(8人きょうだいの末っ子)だったが、「最後の最後まで私を背負って、可愛がってくれていたことを母からよく聞かされた」と振り返る。

慰霊は今も続く

 「抗(あらが)うことのできない流れの中にあったとはいえ、兄はなぜ、若くして死を選ばなければならなかったのか」。輝美さんの記憶はまったくないが、戦死の状況を知った小学生のころから遺影を片時も放さず手もとに置き、兄を偲び続けている。

 岡本さんは、輝美さんを慰霊する旅にも出かけ、広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)や千葉県館山市の海上自衛隊・館山航空基地(旧館山海軍航空隊基地)などを巡ってきた。

 輝美さんの月命日にあたる平成12年11月27日に訪れたサイパン島では、現地の戦没者慰霊碑に郷里(観音寺市)の地酒や有明浜の小石などを供えて冥福を祈った。透き通った海を見て「こんなきれいなところに兄が眠っているんだと思うとなぜか胸がいっぱいになり、涙があふれてしかたがなかった」と振り返る。

 サイパン島周辺を船で巡る慰霊の際、海中に残る零戦の残骸を見て、「サイパンの 零戦沈みし海原に 亡き兄偲び 鎮魂の旅」という歌を詠んだ。

 「戦争さえなかったら」。若くして命を散らした輝美さんをはじめ、多くの戦死者を悼み続ける岡本さんの口癖だ。今も戦没者の魂を慰霊し続けている。




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