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(論)「弔意」通知に関する論説(2020年10月16・17・18・21・22日)

中曽根氏合同葬 「内心の自由」に関わる(2020年10月22日配信『秋田魁新報』-「社説」)

 故中曽根康弘元首相の葬儀が内閣と自民党の合同で営まれた。新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、元首相の葬儀はどのような形がふさわしかったのか。時の政権はどう関わるべきだったのか。この2点を巡る問題を浮き彫りにしたのがこの合同葬だった。

 コロナ時代の葬儀の在り方としては約9600万円の税金投入に批判の声が上がった。政府は「必要最小限だ」とした。だが感染拡大で苦境にある人々を考えれば批判はもっともだ。

 非正規労働者らの解雇や雇い止めは依然として歯止めがかからず、企業の倒産も相次いでいる。この厳しい現実を直視すれば、経済再生への道のりが遠いのは明らかだ。

 葬儀に使う分を削って規模を縮小したり、より簡素にしたりして、経済対策などに向けることはできなかったのか。最多の政党交付金が配分されている自民党の負担分と合わせれば、葬儀費用は総額2億円近くにも上る。疑問は膨らむばかりだ。

 時の政権の関わり方として問題となったのは、文部科学省が国立大学などに弔意を表明するように通知したことだ。葬儀への税金投入と同様に前例があり、「強制は伴わない」というのが政府の立場だ。

 しかし受け取る側にとっては通知自体が「圧力」となり得る。「『踏み絵』を迫る形になったのではないか」「そうしなければならないという空気が教育現場に流れること自体問題」と深刻に受け止めた大学関係者らの声がそれを裏付けている。

 日本学術会議の問題も関係者の懸念に拍車を掛けた。菅義偉首相に任命を拒否された会員候補の教授6人は安倍前政権の安全保障政策などに批判的だった。そうしたことから通知は、要請に応じる大学とそうでない大学を選別する「踏み絵」ではないかとも受け取られたのだ。

 通知にはさらに難しい問題も潜む。弔意表明の要請は個人の「内心の自由」とも関わってくるからだ。

 内心の自由は個人の内面の精神的自由を指す。現憲法が保障する思想・良心の自由、学問の自由などがそれに当たる。国立大でも当然、運営する個々人にこの自由がある。

 それにもかかわらず、特定の政治家の葬儀に際して弔意表明を要請したことには疑問が拭えない。憲法に従って内心の自由を尊重するのであれば、通知などはせず、大学側の自由な判断に任せるべきだったのではないか。

 忘れてならないのは、多様な学問研究と教育が社会の豊かさと日常生活を支えているという重要な事実だ。政治が介入して排除や強制が行われ、多様性が失われるようなことがあってはならない。

 菅首相は「あしき前例主義の打破」が基本姿勢だ。中曽根氏の葬儀でなぜ前例を踏襲したのか明確に説明する必要がある。





合同葬の弔意要請 自律性への配慮に欠ける(2020年10月21日配信『熊本日日新聞』-「社説」)

 内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬が17日に営まれたのに先立ち、文部科学省は全国の国立大などに弔意を表明するよう求める通知を出した。都道府県の教育委員会にも「参考」として文書を送り、市区町村教委への周知を求めた。

 元首相とはいえ、一政治家の葬儀に弔意を示すかどうかは、憲法が保障する内心の自由に関わるものである。加えて教育基本法は、学校で特定の政党を支持するような政治的中立を曲げる教育を禁じている。今回の文科省の通知は、教育現場の自律性への配慮に欠けた、過度な介入と言わざるを得ない。

 政府は、合同葬当日の弔旗掲揚や黙とうを閣議了解。文科省は、趣旨に沿って取り計らうよう国立大などに通知した。黙とうは午後2時10分を指定。弔旗は、1912(大正元)年の閣令で定めた掲揚方法を図解入りで示した。

 大学院大を除く国立大82校のうち、事前の調査で弔旗や半旗を掲揚するとしたのは56校。熊本大は過去の対応例が確認できず、掲揚しないことを決めていた。

 熊本県教委は、各市町村教委に文科省の通知内容を送付。熊本市経由で総務省から同様の通知を受け取った同市教委は17日が授業のない土曜日であることを考慮。「現場に混乱を来す可能性がある」として、各学校への通知は見送ったという。

 萩生田光一文科相は、弔意の表明は「強制を伴うものではない」とし、各大学などの対応を調査することはないと弁明した。

 しかし、文科省は国立大学への運営費交付金など予算配分に大きな権限を有している。また、これまで拒否された例はないが、国立大学長の任命は形式上、大学側の申し出に基づき文科相が行うことと規定されている。

 同様に形式的とされていた日本学術会議会員の任命が菅義偉首相によって拒否され、同会議への予算も、自民党がやり玉に挙げる中での今回の通知である。受け取った側が、無言の圧力を感じたであろうことは想像に難くない。

 合同葬は、費用面でも注目を集めた。政府が2020年度予算の予備費から投じたのは約9600万円。過去に営まれた元首相らの合同葬でも公費は投入されたが、5千万~7千万円台に収まっていた。加藤勝信官房長官は「新型コロナ対策に万全を期す観点から積み上げた」と説明する。

 しかし、そのコロナ対策によって国の財政が窮迫する状況下である。加えて、一般の国民が冠婚葬祭も含めて多数の参加を伴うイベントを自粛してきた中、合同葬の開催自体に厳しい目が注がれていることを、政府も自民党も自覚するべきだろう。

 弔意要請の通知も、公費投入と同様に「前例があった」ことを実施の根拠の一つとしているが、「前例踏襲の打破」が菅政権の看板ではないのか。合同葬の在り方全般を、国民の理解を得られるような形で見直すべきだ。





弔意の示し方(2020年10月18日配信『北海道新聞』-「卓上四季」)

「国破れてこのかた一入木枯(ひとしおこがらし)にさらされる僕の骨は、君という支えさえ奪われて、寒天に砕けるようである」。横光利一の葬儀で、無二の友人であった川端康成が読んだ弔辞の一節である

▼菊池寛を介して出会い、同じ「新感覚派」として終生互いの作家活動を支え合った2人だ。「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」という結びからは、川端の決意とともに、心の痛みも伝わってくる(「川端康成随筆集」岩波文庫)

▼哀悼とは、こうした自然な感情の発露だろう。誰かに指示されたり、要請されるものではあるまい。ましてやそれを強いたり、仕向けたりするようなことがあれば、憲法が保障する内心の自由にも関わる

▼内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬を前に、文部科学省が国立大学などに弔旗掲揚や弔意表明を要請する通知を出していた。都道府県教育委員会にも参考として市町村教委への周知を求めたそうだ

▼「中立性を損なう」との懸念も出ている。おのおのの意志に任せる方が、真の弔意となるのではないだろうか

▼元首相と川端は生前顔を合わせたことがある。1967年の国会で、文化振興に寄与する日本芸術院の会員の選考方法が問題視されたときのことだ。2人は芸術議員連盟と芸術院をそれぞれ代表する立場で協議に臨んでいた。「政治の介入」が注目を集めるのは、時代を問わないようである。





「弔意」の通知 内心の自由侵さないか(2020年10月17日配信『北海道新聞』-「社説」)

 憲法が保障する内心の自由を侵しかねず、配慮に欠けたやり方と言わざるを得ない。

 きょう行われる故中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬について、文部科学省が全国の国立大などの教育現場に弔意を表すよう求める通知を出した。

 政府はこれに先立って、各府省が合同葬に合わせて弔旗の掲揚や黙とうすることを決めた。最高裁が全国の裁判所に協力を要請するなど、さまざまな機関にも影響が及んでいる。

 故人を悼むありようは個人の思想や信条に基づくべきものだ。国が弔意の表明を求めたり指示したりすれば、受け手が強制ととらえても不思議ではない。政府の対応は慎重かつ抑制的にするべきだ。 政府は2日に合同葬当日の対応について関係機関に弔意を表すよう協力を求めると閣議決定した。 加藤勝信官房長官からの周知文書を受けて文科省は13日付で、国立大や日本私立学校振興・共済事業団などに通知した。そこには明治天皇の葬儀での弔旗掲揚の方法を示す文書も添えられていた。

 北大や道教大、小樽商科大など道内の6校が弔旗を掲揚することを決めたが、教員や学生から批判の声が上がっている。

 同様の通知は2000年の小渕恵三氏、06年の橋本龍太郎氏ら過去の元首相の合同葬でも出された。政府は今回も前例を踏襲していて問題はないとする。

 だが、教育現場に弔意を表すよう国が求めるのは、特定政党を支持する教育を禁じる教育基本法に反する恐れはないか。憲法が保障する思想信条の自由を侵す懸念もぬぐえない。

 加藤官房長官は記者会見で「通知は広く哀悼の意を表すよう協力を求める趣旨」として強制性はないと説明する。

 しかし、文科省は運営費交付金などの予算配分を含め大きな権限を握る。通知を受け取った大学側が「無言の圧力」を感じ、協力に従わざるを得ないと受け取る可能性は消えないだろう。

 加藤官房長官は、弔意の表明は各機関の自主的判断に委ねるとの見解も示している。そうであれば弔意表明を実施したかどうかなどの調査も厳に慎むべきだ。

 菅義偉首相が日本学術会議の会員候補の任命を拒んだ問題が起きたばかりだ。安倍晋三政権以降、教育学術分野へ国が統制を強めていると感じざるを得ない。

 こうした懸念に対し、政府は説明を尽くさなければならない。



政権の看板が、しょせん恣意(しい)的なものだと勘ぐられかねない(2020年10月17日配信『河北新報』-「河北春秋」)

 毎年、3月11日の午後2時46分になると、仕事や家事の手を休めて黙とうし、東日本大震災の犠牲者の冥福を祈る。被災地で暮らす人にとっては当たり前のことだが、中には何もしない人も。でも、他人がとやかく言う筋合いはない

▼個々人の心の問題である弔意の示し方を巡って波紋が広がっている。きょう東京都内で営まれる内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせて、文部科学省が国立大などに弔意を表すよう求める通知を出していたからだ

▼通知にはご丁寧にも、弔旗の掲揚の仕方や黙とうする時間を知らせる文書が添付してあった。「協力を求めるもので、強制を伴うものではない」と加藤勝信官房長官

▼言わずもがなのことを額面通りに受け取れないのは、日本学術会議の問題に続く教育・学問の現場への「政治介入」と受け取られかねないからだ。「無言の圧力」と捉えて「忖度(そんたく)」する人がいてもおかしくはない

▼元首相の合同葬に合わせて弔意の表明を求めたのは、小渕恵三、鈴木善幸、橋本龍太郎各氏の3例がある。前例踏襲の見直しを掲げる菅義偉首相は、日本学術会議だけでなく、この件に関しても見直しを検討してもよかったのでは。さもないと、政権の看板が、しょせん恣意(しい)的なものだと勘ぐられかねない。



弔意「あれ、どうした?」(2020年10月17日配信『中国新聞』-「天風録」)

 勤め人が上司や先輩に問われて震え上がるせりふの代表格か。「あれ、どうなってる?」。「あれ」って何だっけ。すぐに察知できないと、言い訳もできないぞ

▲その点、行革担当相の河野太郎氏は目端が利く。菅義偉首相から「あれ、どうなってる?」と聞かれて「いやいや、まだ1週間しかたってません」とかわしたという。あるいは、それくらい首相がせっかちだと記者会見で例えただけかもしれないが

▲こちらは誰かせっついたのだろう、1週間もなかった。中曽根康弘元首相のきょうの合同葬に合わせ、文部科学省が国立大などに弔意を求めた13日付の文書である

▲半旗や弔旗、黙とうについて「よろしく、お取り計らいください」「参考までにお知らせします」とある。強制ではない、自主的に判断されたい―と政府高官は注釈を付けているが、額面通りに受け取れるか。その筋が「あれ、どうした?」と、後で確かめてこないとも限らない

▲吾(われ)のみの弔旗を胸に畑を打つ(佐藤鬼房=おにふさ)。兵隊だった俳人は亡き戦友への弔いを胸に、戦後を生きたのだろう。どれほど高名な人の死であれ、弔意は人それぞれでいい。ここも学者先生たちの踏ん張りどころである。



【政府の弔意要請】教育の中立性を脅かす(2020年10月17日配信『高知新聞』-「社説」)


 時代にそぐわぬ要請と言わざるを得ない。

 きょう行われる内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせ、文部科学省が国立大などに弔旗の掲揚などで弔意を表明するよう求める通知を出していた。

 加藤勝信官房長官は「強制を伴うものではない」とする。しかし、中立性が求められる公教育の現場への弔意要請は行き過ぎである。

 政府は合同葬当日、各府省が弔旗を掲揚し黙とうすることを閣議了解。関係機関にも同様の協力を求めることを決めた。国立大などへの要請はこれに基づく。総務省も都道府県知事や市区町村長に同じ趣旨の文書を出した。

 内閣が主催に名を連ねるのだから、公的機関が協力するのは当たり前との考えがあるのかもしれない。だが教育基本法は、学校で特定の政党を支持したり反対したりする教育を禁じている。国立大などに特定政党の政治家への弔意表明を求めることに対し、「政治的中立性を損なわないか」との疑問が出ているのも当然だろう。

 文科省は強制性を否定し、大学などが弔意を表明したかどうかの調査も行わないとしている。それを額面通り受け取りづらい状況をつくりだしているのも政府自身である。

 日本学術会議の任命拒否問題では拒否の理由を説明しないまま、同会議に年間約10億円の国費が投入されていることなどを挙げ、会議の在り方を検証している。

 それを踏まえれば同じく国費が投入されている国立大などが、予算の削減を恐れて政府の弔意要請を拒否しにくいことも考えられよう。「大学にとっては単なる要請ではなく命令」という、本紙に載った高知大名誉教授の指摘にもうなずける。

 中曽根元首相ら政治家の業績をどう評価するかは、個々人によって意見が分かれよう。そもそも弔意などの表明は、内心の自由に関わることでもある。

 文科省が2000年以降、首相経験者の合同葬で国立大などに弔意表明を求めたのは小渕恵三氏、鈴木善幸氏、橋本龍太郎氏の3例という。今回もそれに倣ったのだろうが、もはやそうした前例にとらわれるべきではあるまい。

 合同葬の当日が土曜日であることを踏まえ萩生田光一文科相は、休日に職員や児童生徒が登校して黙とうすることなどは望んでいないとする。弔意表明の具体的な仕方についても、国立大などが自主的に判断するという。そうであるなら、一律に弔意を要請する慣例はやめるべきである。

 故橋本元首相の合同葬で政府が弔意を要請した際、当時の本県知事で弟の橋本大二郎氏は「強制されているのではないかと受け止められかねない」「何よりも兄自身がそういうことを嫌うだろう」と、本意ではない旨を述べている。

 遺族の心情としても、政治家の見解としても共感できるものだった。





国立大への「弔意」通知 時代にそぐわない対応だ(2020年10月16日配信『毎日新聞』-「社説」)

 あす行われる中曽根康弘元首相の内閣・自民党の合同葬に合わせ、文部科学省が全国の国立大学などに弔意を表明するよう求める通知を出した。

 それに先立ち、政府は各府省が弔旗の掲揚や黙とうを行うことを決め、関係機関も同調するよう協力を促した。通知はこれを受けたものだ。

 2000年の小渕恵三、04年の鈴木善幸、06年の橋本龍太郎の各元首相の合同葬でも同様の通知が出された。文科省の対応は前例を踏襲したものだ。

 ところが、受け取る側の大学教員らから「政府や自民党の指示に従えということか」などと強い反発の声が上がっている。

 背景には、大学を巡る状況が厳しさを増している事情がある。

 04年度の法人化以降、国立大学への運営費交付金は年々減らされ、15年度までに総額1470億円が減額された。

 国が各大学に交付金の一定割合を拠出させ、教育研究の成果などを評価したうえで再配分する制度も導入された。大学側は国の意向に気を使わざるを得ない。

 そんな中で、菅義偉首相が日本学術会議の新会員候補6人を任命しなかった問題が起きた。

 加藤勝信官房長官はきのうの記者会見で、弔意表明は関係機関が自主的に判断するもので、強制ではないと強調した。だが、大学側がそう受け取るとは限らない。

 通知には、明治天皇の葬儀での弔旗の揚げ方を示す図入りの文書も添えられていたという。

 政府は、今の時代状況への目配りが欠けていたのではないか。そもそも弔意とは、個人が自分の意思で表すものでもある。

 橋本氏の合同葬までは、都道府県の教育委員会にも弔意の表明を求めていた。今回、教委への通知は「参考情報」にとどめた。

 学校現場や子どもたちに黙とうなどを求める趣旨と受け取られないための配慮だという。

 教育基本法は全ての学校の政治的中立性や、大学の自主性の尊重を定めている。大学の自治が損なわれてはならず、国立であっても他の公的機関とは性格が異なる。

 こうした通知が政府の指示と解される心配がある以上、国立大学に送る慣例は見直すべきだ。



合同葬巡る通知 弔意強制にならぬよう(2020年10月16日配信『東京新聞』-「社説」)

 17日の故中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬当日、弔旗や黙とうで弔意を表明するよう、文部科学省が全国の国立大などに通知していた。弔意の強制にならぬよう、慎重な取り扱いが必要だ。

 亡くなった人に対し、各個人が自らの信条に基づいて弔意を表明することは当然だ。しかし、首相だったからといって国家が弔意を強いることがあってはならない。ましてや教育機関や学校現場に強制と受け取られかねないような手法は避けねばなるまい。

 政府は2日の閣議で合同葬当日に各府省が弔旗を掲揚し、午後2時10分に黙とうすることを了解。同様の方法で哀悼の意を表明するよう関係機関に協力を要望することも決め、加藤勝信官房長官は同日付で萩生田光一文科相にも周知を求める文書を出した。

 これを受けて、藤原誠文科次官は13日付で、国立大や所管する独立行政法人、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などのトップに対し、加藤長官名の文書を添付して「この趣旨に沿ってよろしくお取り計らいください」と記した通知を出した。

 事務次官名の同様の通知は、1980年の大平正芳、87年の岸信介、95年の福田赳夫、2000年の小渕恵三、04年の鈴木善幸、06年の橋本龍太郎各元首相の合同葬の際も出ており、加藤氏は記者会見で「要望したもので、弔意表明を行うかどうかは関係機関で自主的に判断されることになる」と、強制性を否定した。

 しかし、文部行政のトップである次官による教育機関へのこうした通知は、弔意の強制と受け取られかねず、過去にも反対意見があり、議論の対象となってきた。

 07年の宮沢喜一氏の際にはこうした通知を出しておらず、内閣が関わる首相経験者の合同葬だからといって、弔意の表明を求めなければならないものでもない。

 通知が、特定政党を支持するなどの政治教育を禁止する教育基本法や、思想、信条の自由を保障した憲法に反しないか、慎重に見極める必要がある。

 自民党との折半で国から約9600万円の予算が合同葬に支出されることへの反対論もある。菅義偉首相が日本学術会議の新会員任命を一部拒否したことも、学問の自由を侵すとの厳しい批判がある。

 教育機関や学校現場への国家による過度の介入に、国民から厳しい視線が注がれている。政権中枢や文部行政に携わる者は、そのことを決して忘れてはならない。



中曽根康弘元首相が生前、「お手本…(2020年10月16日配信『福井新聞』-「越山若水」)

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 中曽根康弘元首相が生前、「お手本とする政治家」として名前を挙げたのは原敬である。大正期に初めて本格的な政党内閣を組織し「平民宰相」と呼ばれた。来年は東京駅で暗殺されて100年になる

▼新聞記者を経て外務省に入り、のち立憲政友会総裁に就任した。軍人や藩閥政治家が影響力を持つ中、列強に負けないよう、日本の改革を推進した。政治学者の伊藤之雄さん(大野市生まれ)も新刊「真実の原敬」(講談社現代新書)で「近代日本の最高のリーダーの一人」と高く評価する

▼特に青年期に「公利」という現代の公共性につながる考えを学んでいた点に注目。「民間の活動を支える地域の人々の意志を、最終的な政策の成功のカギととらえるようになった」と指摘する

▼中曽根氏は原が徹底した現実主義者である一方、妥協しながらでも前へという漸進主義者でもあったとみる。「確たる歴史哲学を持ち、人間と祖国に対してつねに忠実でした」(「日本の総理学」)

▼さて、あす実施される中曽根元首相の合同葬について政府は1億円近くの予算をかけ、文部科学省は全国の国立大など教育現場に対し弔意を表明するよう求めた。片や原は、死の9か月前に書いた遺書に、葬儀は東京では式を営まず、郷里(盛岡)の寺で行い、生花・香典は受け取らないよう記していた。こちらは「お手本」とはならなかった。



注;暗殺ののちに原の遺書が公開された。その冒頭には、次のような言葉が記されている。
  
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 原の葬儀は、暗殺から1週間後の11月11日、遺言に従って故郷の原家の菩提寺・大慈寺で行われた。
 墓に記されたのは、ただ「原敬」の二文字のみ。
 原が残した遺産は、借地に建てられた小さな家とわずかな貯金だけであったという。

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原敬が1905年に建築を依頼した大慈寺の山門

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合同葬弔意要請 教育の独立を侵さないか(2020年10月16日配信『信濃毎日新聞』-「社説」)

 大学の自治や教育の独立に関わって、見過ごせない問題をはらんでいる。内閣と自民党による中曽根康弘元首相の合同葬に際して、文部科学省が全国の国立大や都道府県教委に弔意を表すよう求めた通知である。

 合同葬は17日に営まれ、各府省が弔旗を掲揚し、午後2時すぎに黙とうをする。閣議での了解に基づき、加藤勝信官房長官が関係機関への周知を要請した。

 文科省は国立大に送った文書に「趣旨に沿ってよろしくお取り計らいください」と書いている。都道府県教委に対しては「参考までにお知らせします」としつつ、市区町村教委への周知を求めた。通知には、弔旗の掲揚の仕方を示した図や、黙とうの時刻を記した文書を添えたという。

 国立大は収入の多くを国の運営費交付金に頼る。それを差配するのは文科省だ。通知の文言は穏やかで、弔意の表明をあからさまに強要してはいなくても、大学にとっては圧力になる。

 安倍前政権下で、文科省が国立大に、入学式や卒業式での日の丸の掲揚と君が代の斉唱を「要請」したこととも重なって見える。大学の自治を軽んじ、政府に従わせようとする姿勢は、学問研究の統制につながる危うさがある。

 教委への周知を徹底したことにも、教育現場を動員するかの意図が透ける。都道府県や市区町村の教委は、文科省の管理監督を受ける下部機関ではない。政治権力からの独立は教育の根幹にあるべきものだ。政権の意向が上意下達のように教育現場に押しつけられることがあってはならない。

 教育基本法は、学校が特定の政党を支持する教育や活動をすることを禁じている。自民党との合同葬で弔旗の掲揚や黙とうを求めれば、この規定にも抵触する恐れがある。文科省は過去の合同葬でも通知を出してきたが、その根拠は明確でなく、教育にとって有益な面は見いだせない。

 文科省のほか、総務省は都道府県知事や市区町村長に文書を送っている。政府の措置と同様の方法で哀悼の意を表するよう協力を求めた。けれども、知事や市区町村長は政府の要請に縛られるわけではない。職員に黙とうを命じるようなことがあれば、思想・信条の自由を侵すことにもなる。

 弔意を示すかどうかは個人の内心の問題であって、誰かから指示されるべきことではない。教育や地方自治の場に政治的な圧力をかけ、国家への忠誠を試すような政権のやり方は認められない。



哀悼の意はあくまで個人が表すものではないのか(2020年10月16日配信『熊本日日新聞』-「正平調」)

 放送開始から40年近くになるそうだ。NHKのラジオ番組「子ども科学電話相談」。随分昔、小学生の素朴でかわいい質問を聞いて、思わず大笑いしたことがある

▼「どうしてパンツははかないといけないの?」「毛虫の毛をぬくとどうなるの?」。番組のやりとりをまとめた本(NHK出版)には回答者泣かせの質問が並ぶ。中には「人はなんで生まれてきて死んでいくのですか?」と哲学的なものも

▼専門家の見事な答えにも感心してしまう。小欄なら、回答に詰まって冷や汗を流すのは間違いない。そんな子どもたちの質問を眺めていたら、思いは政治の世界へ。同様に素朴な疑問を抱かざるを得ないことが、このところ絶えないようだ

▼菅義偉首相が新政権を発足させてきょうで1カ月。子ども電話相談風に言えば「どうして日本学術会議の新会員に6人だけ任命しなかったの?」「結局、誰が決めたの?」。子どもたちの質問と違って、答えるのは至って簡単と思うのだが

▼ほかにもある。「なぜ故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせ、文部科学省は全国の国立大などに弔意を表すよう求めたの?」。あす行われる葬儀の際、弔旗の掲揚や黙とうをするよう通知したという

▼政府は、強制ではなく問題ないとする。だが、哀悼の意はあくまで個人が表すものではないのか。まるで権力が個人の領域にズカズカと踏み込んできたようで、何とも薄気味悪いものがある。これからも「なぜ」「どうして」と問い続けなければ、と思わせる出来事である。



戦前回帰(2020年10月16日配信『しんぶん赤旗』ー「潮流」)

 東の横綱は長野県、西の横綱は広島県。こんな番付表が残されています。先の戦争中につくられた「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出番付です

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▼1932年、中国東北部を侵略した日本は「満州」を建国。王道楽土や五族協和のスローガンのもと、27万もの人びとが国策として移民させられました。なかでも長野は3万3千人余を送り出し全国一に。しかし、そのうち帰国できたのは1万7千人余でした

▼土地を奪われた現地住民の抵抗のなかで慣れぬ生活を強いられる労苦の日々。あげくに置き去りにされ、襲撃や集団自決、餓死や性暴力と、その末路は悲惨を極めました

▼ふるさとの開拓団に焦点をあてながらこの問題をたどったのが、先日亡くなった井出孫六さんの『終わりなき旅』でした。「中国残留孤児」の支援にも積極的にかかわった井出さんは、この国があの戦争とどう折り合い、片づけるかをつねに注視してきました

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▼そこには戦後の自民党政治によって、ふたたび平和が脅かされていく危機感がありました。いままた菅政権による学術会議への介入や教育現場への中曽根元首相の弔意強要という戦前回帰の動きがあらわになっています

▼日本国憲法は戦後をふり返るときの物差し―。井出さんは本紙にそう語っていました。前文や9条の紙背(しはい)には多くの死を招いたことの悔悟と、流したおびただしい血への贖罪(しょくざい)の意がぬりこまれていると。その憲法を敵視した元首相や前首相を受け継ぐ現政権を、どんなに苦々しくみているだろうか。






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