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対米英開戦(太平洋戦争開戦)記念日 12月8日

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臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。

ラジオ局(日本放送協会)でその発表を読み上げたアナウンサーは館野守男。

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 1941年12月8日未明、旧日本陸軍は英国領だったマレー半島(現在のマレーシア)に上陸し、海軍は米国ハワイ・真珠湾にあった米軍の太平洋艦隊基地を空襲、3年9カ月に及ぶ太平洋戦争に突入した。真珠湾の米軍は戦艦21隻が沈没・損傷し、市民を含む約2400人が死亡した。
 作戦開始暗号「ニイタカヤマノボレ」、奇襲成功暗号「トラ トラトラ」。
 日本の宣戦布告が遅れたため、事前通告をうたった「ハーグ条約」に反する奇襲とされた。
 米側は「リメンバーパールハーバー」を合言葉に反撃を開始した。



当時でも国力で20倍と見積もられた米英との戦争に…(2020年12月8日配信『毎日新聞』-「余録」)

 当時でも国力で20倍と見積もられた米英との戦争に、日本人はなぜ突入したのか。この問いにまたまた思いをめぐらす12月8日がやってきた。最近では、それが行動経済学の考え方で説明されることがある

▲3000円を支払う選択Aと、8割の確率で4000円を払うが2割の確率でタダという選択Bがあれば、リスクをとるBを選ぶ人が多い。先の展望を失った当時の指導層も似た心理で、大きなリスクを承知で僥倖(ぎょうこう)を求めたのである

▲経済思想史家の牧野邦昭(まきの・くにあき)さんの「経済学者たちの日米開戦」はそう指摘し、避戦のためには開戦リスクの大きさよりも、避戦が必ずしも「損」にはならない展望が必要だったという。賭け金にされたのは途方もない数の人の命だった

▲当時のエリートだけでなく、一般国民も日米の国力の差はよく知っていたと説いているのは日本近代史家の加藤陽子(かとう・ようこ)さんだ。政府は学校でも日米の国力の差をグラフで強調し、それを克服するのが大和魂だなどと教えていたという

▲加藤さんの「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」によれば、国力の差はむしろ対外危機を扇動する材料とされた。国民には国力の差から政府や軍と別の選択肢を描き出すすべはなかった。開戦は、政府の自縄自縛(じじょうじばく)の結果でもあろう

▲その加藤さんは菅義偉(すが・よしひで)首相により学術会議への任命を拒まれた6人の一人だ。国民のリスクを軽視する政府の冒険的施策はコロナ禍でも見られないか。まこと日本人の選択を今も照らし出す79年前の12・8だ。



開戦の日に考える 鶴彬獄死の末にある戦(2020年12月8日配信『東京新聞』-「社説」)

 鶴彬(つるあきら)という川柳作家をご存じでしょうか。日本が戦争へと突き進む中、貧困と反戦を詠み、治安維持法違反で逮捕、勾留中に病死しました。苛烈な言論統制の末にあったのは…。79年前のきょう破滅的な戦争が始まります。

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 鶴彬(本名・喜多一二(かつじ))は1909(明治42)年1月、石川県高松町(現在のかほく市)に生まれました。尋常小学校や高等小学校在校中から地元新聞の子ども欄に投稿した短歌や俳句が掲載されるなど、才能は早くから知られていたようです。

◆貧困、社会矛盾を川柳に

 喜多の作品が初めて新聞の川柳欄に載ったのは高等小学校を卒業した翌24年の15歳当時、進学の夢がかなわず、伯父が営む機屋で働いていたときでした。

 <静な夜口笛の消え去る淋しさ>(24年「北国柳壇」)

 「蛇が来る」などと忌み嫌われた夜の口笛を吹いても、何の反応もない寂しさ。少年期の感傷的な心象風景が素直に表現された作風がこのころの特徴でしょう。

 翌年には柳壇誌に作品が掲載され、川柳作家として本格デビューを果たします。その後、多くの川柳誌に作品を寄せるようになりました。このころはまだ柳名「喜多一児(かつじ)」や本名での投稿です。

 17歳の時、不景気で伯父の機屋が倒産。大阪に出て町工場で働き始めた喜多を待ち受けていたのは厳しい社会の現実でした。喜多の目は貧困や社会の矛盾に向けられるようになります。

 <聖者入る深山にありき「所有権」>(28年「氷原」)


 このころ都市部では労働運動、農村では小作争議が頻発、政府は厳しく取り締まります。持てる者と持たざる者、富める者と貧しい者との分断と対立です。修験者が入る聖なる山にも俗世の所有権が及ぶ矛盾。そこに目を向けない宗教勢力への批判でもありました。

◆反軍、反戦を旺盛に詠む

 19歳のとき大阪から帰郷した喜多は、生産手段をもたない労働者や貧農、市民の地位向上を目指す無産運動に身を投じ、特別高等警察(特高)に治安維持法違反容疑で検束されます。その後、故郷を離れて上京、柳名を「鶴彬」に改めたのも、特高の監視から逃れるためでもありました。

 兵役年齢に達した21歳の30年、金沢の陸軍歩兵第7連隊に入営しますが、軍隊生活が合うわけはありません。連隊内に非合法出版物を持ち込んだ「赤化事件」で軍法会議にかけられ、大阪で刑期2年の収監生活を送ります。

 刑期を終え、除隊したのは33年、24歳のときです。このときすでに日本は、破滅的な戦争への道を突き進んでいました。31年には満州事変、32年には海軍青年将校らが犬養毅首相を射殺した5・15事件、33年には日本は国際連盟を脱退します。

 この年、自由主義的刑法学説をとなえていた滝川幸辰(ゆきとき)京都帝大教授に対する思想弾圧「滝川事件」が起こり、学問や言論、表現の自由への弾圧も苛烈さを増します。

 しかし、鶴がひるむことはありませんでした。軍隊や戦争を批判し、社会の矛盾を鋭く突く川柳を作り続けます。

 <万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た>

 <手と足をもいだ丸太にしてかへし>

 <胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき>


 召集令状1枚で男たちは戦場へ赴き、わが家に生還しても、ある者は手足を失い、妻の胎内に新しいわが子の生命の胎動を知るころに遺骨となって戻る男もいる。鶴が川柳に映しだした戦争の実態です。いずれも37年11月「川柳人」掲載の作品です。

 特高はこうした表現を危険思想とみなし、同年12月、治安維持法違反容疑で鶴を摘発し、東京・中野区の野方署に勾留しました。

 思想犯に対する度重なる拷問と劣悪な環境。鶴は留置中に赤痢に罹(かか)り、東京・新宿にあった豊多摩病院で38年9月に亡くなりました。29歳の若さでした。

 川柳に続き、新興俳句も弾圧され、表現の自由は死に絶えます。

◆戦争へと続く言論弾圧

 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、この社説の見出し「鶴彬/獄死の末(さき)に/ある戦(いくさ)」も五七五の川柳としてみました。

 学問や言論、表現に対する弾圧は、戦争への道につながる、というのが歴史の教訓です。

 安倍前政権以降、日本学術会議の会員人事への政府の介入や、政府に批判的な報道や表現への圧力が続きます。今年は戦後75年ですが、戦後でなく、むしろ戦前ではないかと思わせる動きです。

 戦後制定された憲法の平和主義は、国内外に多大な犠牲を強いた戦争の反省に基づくものです。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。その決意の重みを、いつにも増して感じる開戦の日です。




その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その…(2020年12月8日配信『東京新聞』-「筆洗」)

 その朝の授業は鬼のあだなで畏怖された教授の英語だった。その朝とは、1941(昭和16)年12月8日。日米開戦の日だという

▼開戦の臨時ニュースが校内に伝えられた。教授は廊下に飛び出し、「万歳」と叫んだそうだ。当時の学生が書き残している

▼作家、半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』にあったが、とりわけ珍しい話ではなかろう。<やみがたくたちあがりたる戦(たたかい)を利己妄慢(ぼうまん)の国国よ見よ>斎藤茂吉。長く続く米英との緊張。当時の国民はうっとうしさや閉塞(へいそく)感の中にあり、真珠湾攻撃はその暗雲を吹き飛ばすかのように受け止められた。「利己妄慢」の米英という大国に挑む痛快さもあったという。茂吉もそうだったのだろう

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▼11年後の52年に建立された、広島の原爆死没者慰霊碑。碑文は<安らかに眠って下さい/過ちは繰返しませぬから>である。その言葉を考案したのは12月8日に「万歳」を叫んだあの教授だそうだ

▼歴史の皮肉を書きたいわけではない。教授の名は当時広島大学教授の雑賀忠義さんとおっしゃる。この人も被爆している

▼あの日、今から考えれば、勝てるはずもない日米の開戦に国民の大半が高揚した。記憶にとどめなければならぬ戦争の過ち。それは軍や政府によるものだが、感情に任せたわれわれの側の「万歳」をそこから除く理由もまた見当たらぬ。繰り返すまい。



徹底して異論を排した国の悲惨な末路(2020年12月8日配信『神戸新聞』-「正平調」)

 真珠湾攻撃で煙を噴き上げる米軍艦の写真が、文芸作家による同人雑誌の目次ページに掲載された。1941(昭和16)年12月8日の日米開戦から間もなくのことで、国中が「やった、やった」の万歳にわいていたころである

◆同人の席で作家の野口冨士男さんが苦々しげに言った。「これは、誰が決めたのですか、このような写真をのせるのは軽率というか…どうも」。多くの人が内心ではうなずきつつ、誰も声を発しなかったという

◆やりとりを見ていた作家、水上勉さんが書きとめている。「このように、あの時代の物ごとのとりきめというようなものは、人がだまっているうちに決まってしまったのかもしれない」と(「文壇放浪」より)

◆抗しがたい場の空気が人々の耳をふさぎ、口をつぐませる。徹底して異論を排した国の悲惨な末路を79年後の私たちは知っている。言論を一色に染め上げ、戦意をあおったメディアの責任もまた問われ続けよう

◆〈最初からはんたいでしたとみんな言うそれならこうはならないものを〉(松村正直)。現代歌人の一首は暗い過去の話のようでいて、必ずしもそうとは言い切れない

◆場の空気にかき消され、ひっそりとうずくまる小さな声に気づく。そういう耳を持ちたいと今日の日に思う。



何げない時間の大切さ(2020年12月8日配信『南日本新聞』-「南風録」)

「早く戦争が終わって、おいしいコーヒーが入れたい。それだけが僕の望み」。先日放送が終わったNHK連続テレビ小説「エール」で喫茶店のマスターが、代用品の大豆でコーヒーを入れながらこう漏らす場面があった。

 ぜいたく品の製造や販売が法律で禁じられたのは、太平洋戦争がまだ始まっていない1940(昭和15)年だった。「ぜいたくは敵だ」というスローガンを書いた看板が街のあちこちに立てられた。

 当時の新聞は「趣味の、ぜいたくのといっておれない時勢だ」と後押しし、百貨店の食堂は、米の代わりにうどんを使ったすしや“国策ランチ”など代用メニューを競って開発した。作家半藤一利さんの「B面昭和史」に詳しい。

 79年前のきょう、旧日本軍による真珠湾攻撃で日米は開戦した。半藤さんは「教訓としなければならないのは戦争への過程、つまり前段階」と警鐘を鳴らす。

 国民が同じ方向を向くような空気が生まれれば、再び誤った道に進みかねない。新型コロナウイルス感染が拡大し、他人の行動に目を光らせる「自粛警察」という言葉が話題になった。「右へ倣え」の同調圧力がはびこる世は恐ろしい。

 手ごわいウイルスにおびえながら年の瀬を迎える。そんな時だからこそ、他者への思いやりを忘れないよう心掛けたい。一杯のコーヒーをゆっくり味わえる何げない時間の大切さを胸に刻みつつ。





三国同盟は「米への宣戦布告」 知米派海軍将校の訓示発見(2020年12月8日配信『産経新聞』)

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「昭和十五年度陸奥艦長保科大佐訓示集」=畑野勇氏提供

 8日は、日米開戦のきっかけとなった米ハワイ・真珠湾攻撃から79年。この前年に締結された日独伊三国同盟を受け、知米派で知られた日本海軍の将校が「米国に対する無言の宣戦布告となった」と部下に訓示していたことを示す文書が見つかったことが7日、分かった。文書を発見したのは武蔵学園記念室で勤務の傍ら、日本海軍史の研究を続ける畑野勇氏(49)で「陸軍に比べ穏健とされた海軍部内でも、開戦前年には対米戦争は不可避との認識が広がっていたことを伝える貴重な史料」としている。

 訓示したのは、米国駐在経験がある保科善四郎大佐(後に中将)。三国同盟が締結された昭和15年9月、当時艦長を務めていた戦艦陸奥の乗組員に同盟の内容を説明し、「結局米国に対する無言の宣戦布告となった」と述べた。また、今後は鉄くずや石油といった物資を、オランダ領東インド(現インドネシア)などから入手しなければならなくなるとの考えも示した。畑野氏が見つけた「昭和十五年度陸奥艦長保科大佐訓示集」に記されている。

 訓示の2カ月後、海軍は戦争準備に本格的に入る「出師準備」を発令し、16年12月に米ハワイ・真珠湾を攻撃。畑野氏は「三国同盟によって、海軍は米国を牽制(けんせい)しながら戦争突入を避けることは、まず不可能と認識していた。この史料からそのような雰囲気がよく分かる」と解説する。

 畑野氏によると、これまで海軍は16年6月、内部組織の「国防政策第一委員会」が強硬に対米戦を主張し、米国との関係悪化が決定的となった同7月の南部仏印進駐につながったと考えられてきた。

 畑野氏は「委員会の主張はあくまで『遠からず対米戦争突入は必至である』という海軍内での観測を集約したもので、対米戦への緊張感は15年の段階で高まっていたのではないか」と推測する。



太平洋戦争開戦79年 真珠湾攻撃犠牲者の追悼式典 ハワイ(2020年12月8日配信『NHKニュース』)

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 太平洋戦争の開戦から79年となる8日、旧日本軍による真珠湾攻撃が行われたハワイのオアフ島では、犠牲者を追悼する式典が開かれました。

 式典は真珠湾をのぞむ国立公園で開かれました。

 去年はおよそ2000人が出席しましたが、ことしは新型コロナウイルスの感染拡大の影響で大幅に縮小され元兵士などはオンラインで参加しました。

 攻撃が始まった現地時間の7日午前7時55分、日本時間の8日午前2時55分に合わせて鐘が鳴らされ、攻撃で死亡したおよそ2400人を追悼しました。

 そして、太平洋艦隊のアクイリノ司令官が「79年前の犠牲が全世界の平和と安定と繁栄をもたらした。その犠牲を忘れず、よりよい世界の実現に向け、努力を続けることを誓う」と述べました。

 当時の状況を知る人が少なくなる中、アメリカ政府は、ことしはじめて真珠湾と全米各地の学校をオンラインでつなぎ、当時の国際情勢や攻撃の状況、そして次の世代に語り継ぐ意味について考える授業を行い、5日間でおよそ2400人が参加しました。

 担当者は、小中学生からの「アメリカは攻撃を防げなかったのか」とか、「アメリカと日本が今は仲がよいのはなぜなのか」などという質問に答えていました。

 責任者のスコット・バーチ氏は「悲劇が起きたこと、そして、最終的には和解に至ったことを学び、世界は少しでもよい方向に向かっていることを理解してくれたはずです」と話していました。




太平洋戦争開戦当日の大阪毎日新聞夕刊、北九州で見つかる(2020年12月7日配信『毎日新聞』)

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岩下さんが父親から引き継いで保管していた太平洋戦争開戦を伝える大阪毎日新聞夕刊。左上に「第六版」と記されている=北九州市八幡東区で2020年12月5日午後0時39分、奥田伸一撮影

 79年前の太平洋戦争開戦(1941年12月8日)当日、大阪毎日新聞社西部支社(現毎日新聞西部本社)が発行した夕刊の最終版「第六版」が、北九州市八幡西区の元会社員、岩下安宏さん(82)宅で保管されていた。1面に「帝国遂に対米英宣戦布告」の見出しを張って、旧日本軍の米ハワイ・真珠湾攻撃や昭和天皇の宣戦布告詔書を掲載しており、社内に現存しない紙面。歴史的な出来事を伝えると共に、新聞が戦意高揚の一翼を担ったことが読み取れる。

 新聞は配布地域ごとに記事の締め切り時刻を設定しており、第六版は締め切りが最も遅く、最新のニュースが掲載された。小倉北区の西部本社には、締め切りが最も早い「第三版」のみが保存され、同じ日の夕刊でも記事内容や見出しが異なる。

 第六版は特別紙面で通常の倍の4ページ。1面には「大詔渙発(たいしょうかんぱつ) 交戦状態に入る」の縦見出しもある。大詔は開戦を告げる昭和天皇の詔書を指し、渙発は詔書を国内外に広く発布したことを意味する。布哇(ハワイ)比島(フィリピン)、新嘉坡(シンガポール)、マレー半島(現在のマレーシア)と旧日本軍が攻撃した地域を見出しで列挙した他、中国に展開していた派遣軍総司令官声明も掲載し「米英よりの解放は東亜(東アジア地域)民族の請願」との見出しが躍る。

 一方、社内に残る第三版の1面には「帝国陸海軍・米英と戦闘状態」の横見出し。戦闘地域は書かれておらず、宣戦布告詔書も掲載されていない。どちらの紙面も開戦を大々的に報じる一方、批判記事は見当たらない。

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毎日新聞西部本社に残る開戦を報じる夕刊。左上に「第三版」とあり、攻撃地点や開戦詔書は掲載されていない=北九州市小倉北区で2020年11月26日午後7時17分、奥田伸一撮影

 第六版は、岩下さんの父定(さだむ)さん(故人)が自宅本棚に保管。60年余り前に本棚ごと引き継いだ岩下さんが、程なく何の包装もされないままの新聞に気づいた。「大事なことが載っている新聞だ」と直感し、手元に置いてきたという。

 岩下さんは、八幡東区で空襲体験の記録に取り組む市民団体「聞き書きボランティア『平野塾』」の活動を知り、紙面を寄託した。「開戦時にさまざまなことが起きていたことを多くの人に知ってもらえれば」と話す。【奥田伸一】



「対米英開戦」79年(2020年12月7日配信『しんぶん赤旗』ー「主張」)

歴史の過ち二度と繰り返すな

 1941年12月8日、中国で侵略戦争を続けていた日本は、当時イギリス領のマレー半島コタバルとアメリカのハワイを奇襲攻撃し対米英戦争に突入しました。あすはその日から79年です。日本の戦争は、アジア諸国民と日本国民に甚大な犠牲を出しました。悲劇を絶対に繰り返してはなりません。日本を再び「戦争する国」にすることを狙った安倍晋三前政権を引き継ぐ菅義偉政権は、日本学術会議の人事に介入し、学問の自由を蹂躙(じゅうりん)する強権姿勢があらわです。国民の自由と権利を奪い、戦争に突き進んだ歴史の過ちに無反省の政権を許すわけにはいきません。

自由を奪われ戦争に動員

 日本国憲法前文は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」すると宣言しました。憲法が定める国民主権や恒久平和、基本的人権などの原則は、悲惨な戦争の経験を踏まえて築かれたものです。

 学問の自由を保障した23条にも、戦前の痛苦の反省が込められています。1920年代後半から思想・表現への弾圧が強化され、学問・研究の自由への重大な攻撃も際立ってきます。それは日本の侵略拡大と軌を一にしています。1931年の中国東北部への侵略(「満州事変」)が始まると滝川事件(33年)が起こります。京都大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の自由主義的な刑法学説や著書が攻撃され、政府が同教授の追放を強行する暴挙にでました。中国全面戦争開始(37年)前の35年には憲法学者の美濃部達吉氏らの言動が不敬罪だと攻撃され、政府が著書の発売を禁止するとともに、政府声明で美濃部氏らの学説を否定する「天皇機関説」事件が起きました。これらの学問弾圧事件が大きな分岐点となり、全ての国民の言論、表現の自由の圧殺へつながりました。

 日本学術会議の前身である学術研究会議は20年に設立されました。当初から独立性は限られてはいたものの、会員は会議の推薦で選ばれるなど一定の独立性はありました。しかし、対米英戦が激化した43年、推薦制は廃止され、文部大臣の任命制に変えられました。「科学研究は大東亜戦争の遂行を唯一絶対の目標として強力にこれを推進」「学術研究会議を強化活用して学理研究力を最高度に集中発揮」との政府決定を受けたものです。この改編を機に科学者が軍事研究に総動員され、本土決戦用の兵器開発などに駆り立てられました。

 49年発足した日本学術会議の原点は、戦争協力への深い反省の上にあります。学術会議の独立性を破壊する菅政権の会員任命拒否は、誤った道への逆行そのものです。日本の平和と民主主義がかかった重大問題をこのままにはできません。国民共同の力で任命拒否を撤回させることが急務です。

憲法を守り生かすとき


 45年8月の日本の敗戦から今年で75年です。日本の侵略戦争で310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア・太平洋の諸国民が犠牲になり、日本の戦争責任はいまも問われ続けています。

 安倍前首相が打ち出し、菅首相が継承する9条改憲の狙いは、自衛隊が海外での武力行使に本格的に道を開くことです。戦後の歩みを逆転させる暴走を阻止することが必要です。改憲策動を断念に追い込み、憲法を守り生かす世論と運動をさらに強めましょう。




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