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今年90歳・大村崑「人生で今、一番体調がいい」秘訣は筋トレ…小3難聴、19歳結核、58歳大腸がん乗り越え(2021年1月31日配信『スポーツ報知』)

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担当トレーナーのもとでトレーニングに励む大村崑

 今年、90歳になる俳優の大村崑は近年、筋トレに打ち込み「人生で今、一番体調がいい」と力を込める。戦後、テレビ創成期から喜劇役者の“こんちゃん”として親しまれ、全国区の人気を誇った。しかし、19歳の時、結核と闘い「40歳で死ぬ」と医師に告げられ、58歳には大腸がんの手術も経験している。生涯、“元気ハツラツ”の請負人であり続けるため、「命ある喜び」をかみ締めながら「102歳まで生きたい」と語る。(内野 小百美)

 終戦時14歳。幼い時から、真っすぐな性格で納得できないことは拒む子だった。「死」に初めて直面したのは9歳の時。実父が腸チフス(注)で逝った。芸事の楽しさを教えてくれた人で、父の影響がなければ芸能界に進むことはなかった。

 「クリスマスに車で運ばれる時、まだ少し元気だったのに元日に死んでしまった。たった数日で顔が骸骨みたいに変わり果てて。『お父ちゃんとちゃう!』と認められなくてね」。死の恐怖におののいた。家、周辺の道まで消毒され「“チフスの子”と言われ、遊んでくれる人もいなくなった。コロナの風評被害のニュースを見聞きする度、当時を思い出すね」。

 一家離散し、親戚が養父母となった。伯母から「これからは、お母ちゃんと呼びなさい」と命じられた。「実母とは生き別れ。どうしても、おばちゃんとしか言えなかった。何べんも左頬と左耳付近をぶたれるうち、鼓膜に傷がついて小3で難聴になってしもうて」。小1の時には野球のファウルボールが右目を直撃。病院へ行かず放置していた。「左目ばかりで見てて斜視のようになった。実は体中、悪いとこだらけなんですよ」

 学徒動員で学校にはほとんど行けなかったが、高校卒業後、写真館を営む養父母の家を飛び出した。「結婚式と葬式の写真の現像を一緒にやっているのを見て、お客さんを裏切っている気がして。嫌になったんだよね」。仕事はきれいごとでできるものではないことを諭されるも、納得できなかった。

 「今、生きてるのが不思議に思えるね」。実家を出た後、神戸のキャバレー「新世紀」でボーイや司会をしていた。4、5歳の時、子役の経験もあり、人前で何かをすることが好きだった。しかし、若さを過信して不規則な生活を送るうち、体はむしばまれていた。当時19歳。「玉突き(ビリヤード)やってる時に血の塊みたいなのを少し吐き出した。その後、ガバーッと喀血(かっけつ)してもうて。この時初めて死ぬかも、と思ったね」

 9歳の時の“父との別れ”で独特の死生観が生まれ、冷静だったという。衰弱した体を横たえ、朝まで過ごした。しかし翌朝、驚いた家族に連れられ病院へ向かった。

 「予想通り結核と診断され、その場で『治らん。お前死ぬぞ。ハイ、次!』と言ったかと思うと、その医者は次の患者を診察していた」。その医師は元軍医だった。「戦地で手や足を片方失ったり、頭が割れた人も見てきた。結核なんてぜいたくな病気や」と、にべもなかった。

 「母は先生の脚にしがみついて。廊下で何回も蹴飛ばされ、まるで『金色夜叉』の貫一、お宮のお宮みたいだった」。「お母ちゃん」と呼ぶことを強制した養母だった。「調べて先生の自宅を突き止め、お金を包んで夜に訪ねると、病院を紹介してもらうことができたんです」

 結核患者が集まる病院では「『今月死ぬのはオマエだ』とか冗談にならない冗談を言い合って。でも、いい薬が入ってきた頃で希望者を聞かれボクは『打ちたい』と手を上げたんです」。抗生物質の一つ、ストレプトマイシンが日本でも使われ始めた頃だった。

 しかし、これで終わらない。病巣のあった右肺切除が待っていた。胸に3か所穴を開けて行う大手術にもかかわらず、全身麻酔ではなかった。施術は頭付近を覆われ見えないものの、意識はあり、医師たちのやり取りも聞こえた。

 「先生はインターンに僕の手術をやらせていた。『こら、田中、ちゃう。そこ切ったらあかんやろ!』とか言ってる。2時間で終わるはずが6時間かかった」。手術室の外からは延々、「南無妙法蓮華経」と不気味な女性の声が聞こえた。“お宮状態”になりながら治療を諦めなかった養母がお経を唱えていたのだった。

 退院まで3か月かかった。「鬼瓦のような顔した先生」に言われた。「40まで生きられたらしめたもんや。結婚? 無理や。もし子供が生まれたら、父親に早くに死なれてかわいそうやろ。君は字がきれいでしゃべりがうまい。役場の案内人とか向いている。紹介状渡すから、そこへ行け」と。しかし、その紹介状が使われることはなかった。「本当にあと20年しか生きられへんのなら、やりたいことやろう、と。その時、芸事が好きだった父を思い出し、芸能の道を志そうと決めたんです」

 58歳の時に大腸がんが見つかった。約30年前、内視鏡を使った検査、施術が普及し始めて間もない頃。

 「知人に無理やり、勧められて受けた検査で発見されたんです。その先生たちと焼き肉屋に行き、食べる前にがんの話をされた。動揺で焼き肉食べる心境じゃなかったですよ」。自覚症状がない初期の段階だったため、腫瘍4つを内視鏡で切除した。結核の時の大変さに比べれば、負担は軽かったという。

 筋トレを始めたのは2018年春。カンツォーネ歌手でもある瑤子夫人の提案をきっかけに、夫婦で大阪の自宅近くのライザップに見学に行った。「楽しそうに見えた」と、その場で申し込み、週2回通うようになった。

 「ボクは肺が1つしかないから撮影現場などで『急いで』と言われても、肩で息をしながら一番後についていくようなタイプの人間だった。胸板も薄くて、ガリガリで腕を出すのにも恥ずかしくて抵抗があった。それが担当のトレーナーの指導のもと、無理なく続けられている。この年で筋肉が付くと分かった」。“86歳の手習い”だったが、みるみるうちに体が変化した。「食事の指導も受けるので3か月目くらいから効果が出始めた。以前はよく転びそうになっていた。体幹ができたというのか足腰が安定して。運動中毒みたいやね。生きてきて、今が一番調子いい。一番元気ハツラツしているんですから」

 約2年前のあるイベントに出席した際、元気ぶりを証明するために壇上で延々スクワットを披露してみせ、場内にいた人々を驚かせた。「40歳過ぎてしばらくは誕生日が来る度、生きてていいのかな、来年はもういないかな、とかそんな気持ちが続いた。今は毎朝起きた時、今日も生きられて幸せやな、と思うんです」と命があることに感謝するという。

 問わず語りに自分のラストにも触れた。「100歳では面白くない。102歳まで生きたい。最初は口先で言っていた目標ですが、今の調子なら本当にいける気がする」。その後のことも具体的だ。「お別れの時はドラマでお世話になった“赤い霊柩(れいきゅう)車”に乗せてもらう。エキストラを使ってでも2000人くらい集めて、いっぱいいっぱいの人に見送られたい。僕は晴れ男やから、きっと晴天に恵まれるでしょう」

 あの世に着いてからのことまで考えている。「『40歳で死ぬ』と断言した先生を探し出したい。『ボクはおかげさまで、こうやって102歳まで生きることができましたよ』と報告したいんです」




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