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この国に、女優・木内みどりがいた(2021年2月14日配信『毎日新聞』)

<24>脱原発運動の中で傷ついても

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小出裕章さんが登壇した「9.1さようなら原発講演会」で司会を務めた木内みどりさん=東京・日比谷公会堂で2013年9月1日(C)田村玲央奈

 「この国に、女優・木内みどりがいた」の「原発編」は今回が最後になる。原子力廃絶のための研究を続け、木内さんに大きな影響を与えた元京都大原子炉実験所助教の小出裕章さん(71)への2回目のインタビューを中心に構成したい。私は新型コロナウイルス感染拡大の第2波が比較的落ち着いた2020年10月、約7カ月ぶりに小出さんが暮らす長野県松本市を訪れた。普段は同居する妻以外、誰にも会わない「仙人暮らし」を続けていた。【企画編集室・沢田石洋史】

小出裕章さんに再インタビュー

 1回目のインタビューは同年3月11日に行った。この時は東京電力福島第1原発の現状を解説してもらったり、東日本大震災から丸9年の所感を述べてもらったりした。当時、事前にメールで送った質問事項には、前年に死去した木内さんとの思い出についても語ってほしいと依頼したが、小出さんからこんな返信が届いた。

 「みどりさんとの思い出はいっぱいありますが、書いたり、言ったりしたくありません。彼女は、自分の頭で考え、行動する人でした。そういう人がこの国に増えてほしいと思います」。このため1回目のインタビューでは、木内さんの話題は最小限にとどめた。

 この連載を同年8月に始めて間もなく、私は再び小出さんにインタビューを申し込んだ。今度はテーマを絞って、「木内みどりさんについて」。

 小出さんは、その2カ月前に出版された木内さんの著書「またね。木内みどりの『発熱中!』」(岩波書店)に6ページにわたる追悼文を寄せている。タイトルは「みどりさん、もう会えないけれど」。

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 この追悼文には、小出さんにとって木内さんは、優れた映画の存在を教えてくれた「映画の先生」であり、飲み友達だったことが書かれている。そして、人の輪をつなげるのに熱心だったことも。

 <(夫の)水野誠一さんを含め、一介の原子力の専門家である私では到底めぐり合えないような方々、芸術家、作家、画家、映画監督、政治家、ジャーナリスト、社会運動家……、みどりさんがたくさんの素敵な人たちを私に引き合わせてくれました>

 私の知る限り、木内さんにとって、小出さんは家族の次ぐらいに大事な存在だったのではないだろうか。15年に出版された「ラジオは真実を報道できるか」(岩波書店)で2人は対談しているが、司会者に「小出さんはどういう存在でしょうか?」と問われ、木内さんは「地球上でとっても大切な方です」と答えている。

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小出裕章さんへの1回目のインタビューは松本城近くで行った=長野県松本市で2020年3月11日、沢田石洋史撮影

「私は絶対に諦めない」


 小出さんへの2回目のインタビューが実現すると、私はまず、2人が初めて出会った13年9月1日のことを尋ねた。東京都千代田区の日比谷公会堂で小出さんが講演し、木内さんが司会を務めた「9.1さようなら原発講演会」。連載15回目でも触れたが、終了後、2人は一緒に首相官邸前に移動し、木内さんはマイクを握って「小出さんが諦めない限り、私も絶対に諦めない。原発は止まると信じて頑張っていきます」とスピーチしている。

 「私はもちろん諦めないし、みどりさんも諦めないで一緒に歩いてくれるだろうと思っていました」。小出さんは、短くそう言って沈黙した。

 インタビューは途切れ途切れでなかなか前に進まないが、私は、小出さんとそういう時間を共有していることに、少しだけ心が安らぐ思いだった。大切だった人の死は「言葉にならない」からだ。ときには相談事にアドバイスもしてくれた木内さんは、私にとっても大切な人だった。

 「私がみどりさんを失った重さというのは、普通の方には分からない。もちろん、水野さん、(娘の)頌子さんにとっては、私と比較にならないほどの重さがあるはずです」

 そう言う小出さんに、私はこんな質問をぶつけた。木内さんは周囲に「私が頑張っても何も変わらない」と嘆いていた時期がある。おそらく、小出さんに「どうすればいいか」と相談していたのでは――。

 「私は『全て、自分の胸の内に聞いてください』と答えました。みどりさんは、ちょっと困ったような顔をしていました」

 「アドバイスを求めた人に、その答えは冷たいのではないか」と切り返すと、小出さんはこう言った。

 「でも、誰もが全ては自分で決めるというのが原則だと私は思います。私は、みどりさんも含めて誰に対しても『こうすべきだ』とか『そうしたほうがいい』とか一切言わないことにしている。みどりさんへのアドバイスは『ご自分で考えてください』だけです。だから、みどりさんは自分で全てを決めて行動していたと思います」

亡くなる2カ月前にも司会

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「9.1さようなら原発講演会」で初めて出会った小出裕章さん(右)と木内みどりさん=東京・日比谷公会堂の楽屋で2013年9月1日(C)田村玲央奈

 私は、ノートにメモした木内さんの言行録を小出さんの前で次々と読み上げた。

 13年12月22日の脱原発集会で「自分の目で見て、自分だけを信用して、自分が見たこと、自分が聞いたことで自分の意見をつくりたい」と話していたこと。連載21回目で紹介したように、14年4月11日、ロンドンで開かれた脱原発集会では英語でスピーチをしていたこと、などだ。

 「そうです。みどりさんは『ロンドンでスピーチしちゃった。(亡くなった)親が知ったら、さぞかしびっくりしたでしょうね』とおっしゃっていたことがありましたけど、みどりさんなら、そのぐらいのことはやると私は思っていました。お連れ合いの水野さんは世界をまたぎ、あちこちを歩いてきた方です。みどりさんは、チベットのダライ・ラマ14世が来日すれば司会をして、彼のお世話をするということもやっていた。日本だけに活動をとどめるということは、はじめから彼女の頭の中にはなかったんじゃないかと思います。経済産業省前テントひろばでも、彼女はわざわざ、ご自分で英語のメッセージを書いた横断幕を作って掲げていましたよね。『日本語だけでは駄目だ』『英語で発信しよう』と言って、ご自分でやられた」

 小出さんが木内さんに最後に会ったのは、おそらく亡くなる約2カ月前の19年9月11日だったという。この日、小出さんは東京・永田町の参院議員会館で開かれた院内集会で講演し、司会を木内さんが務めた。この後、2人は経産省前の集会へと足を運び、木内さんはここでも司会を務めている。

 「要するに、本気の人ですね。みどりさんの職業は女優じゃないですか。私はもちろん、その世界のことをちゃんと知っているわけじゃないけど、政治的な発言をすれば、すぐに干されてしまう。多分そういう世界だと思うんだけども、そんなこと全然気にしないですよね、彼女。というか、自分がこうだと思ったら、一切気にしないで本気でやる」と小出さん。

司会者として嫌な場面とは

 前出の追悼文にはこんな一文もある。

 <みどりさんとは、反原発、脱原発の集会でたびたびお会いしました。多くの場合は、みどりさんが司会を務めてくれていました。主催者や登壇者の行動、発言は時としてみどりさんを傷つけるものでした。私から見ていても痛々しく見えたことが何度もあります。それでも、みどりさんは投げ出すことなく、引き受けた仕事を担い続けました>

 実際はどうだったのか。小出さんは東京・霞が関の路上で開かれた、ある日の集会を例に挙げた。

 「参加者の中には、傍若無人な振る舞いをする人もいます。路上ですから通行人に迷惑がかかる。みどりさんは多分、人に迷惑をかけたくないと思いながら司会をしていました。そこを通り過ぎる人たちが嫌な顔をして通ることを、かなり気にしながら司会をしていたように私には見えました。そんなことはしょっちゅうです。主催者側は、集会をやるのは当然の権利だと思っているわけですけども、それなりの配慮は必要です。みどりさんの行動原理は多分こうです。『自分がやりたいことをやる。その前提として他人に迷惑をかけない』。だから、結構嫌な場面があったと思います。司会には重要な役割がありますが、一部の主催者は、大女優のみどりさんを『ただの司会』として扱った。それでも嫌な顔一つ見せずに自分の仕事だ、と彼女は担った。多分つらかったことはたくさんあったと思います」

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初めて出会った集会の終了後、信号待ちをする木内みどりさん(左)と小出裕章さん=東京都千代田区で2013年9月1日(C)田村玲央奈

 初めて出会ったときの印象は?

 「知的な人でした。自分は中卒だ、と笑って言ってましたけど。自分の人生に必要なことは自分で調べて勉強する、そういう人でした。ご存じのように、みどりさんは高校を1年で中退し、劇団四季に入団して自分の道を切り開いてきました。おそらく、そうやって彼女はずっと生きてきたし、自分の生き方を貫き通してきたわけですね。それは彼女に実力がある、そういうことだと思います」

ある日突然いなくなり…

 私が小出さんにインタビューしたのは10月4日の日曜日だった。平日は日常業務に追われているため、休日しか松本には行けないことを伝えると、他の日は講演日程が詰まっていた。私が小出さんに「人に必要とされることは素晴らしいですね」と言うと、こんな話になった。

 「そうですけど、自分の力が衰えているのは日々実感します。思考力も含めて。昔だったらすぐにできた仕事ができない。何日かけてもたどり着けない。昔から記憶力は悪いけど、一つの仕事をしようとするときの集中力がなくなっていく。その仕事に向かおうと思っても、精神がそこに向かうことができない。時間が過ぎていく。昔だったらすぐにできたことが、できないということは実感します」

 何歳ぐらいから実感するようになったのか――。

 「少しずつ感じてきました。65歳で定年退職したのは社会契約上のことですが、年をとったからでもあります。そのことに意識的でなければならないと思い、退職後は『仙人になりたい』という発言をしたんですけど、そのときは、自分の衰えはまだ感じていなかった。まだ、できるだろうな、と思っていました。松本に来て、できることはやろうと思って。今でもそう思ってますけど、やっぱり、思考力も集中力も落ち、記憶力は昔から悪いのに、どんどん悪くなっている。いずれ、それなりに身を引こうと思っています。みどりさんにそんなこと言ったら怒られるけど」

 そして、こう言って言葉を詰まらせた。

 「彼女は全然、身を引こうなんて思わなかった。できるときは全力で突っ走る、そういう人でした。私はできなくなる日が来るから、自分で撤退する道を引く。それが私の生き方ですが、彼女はそうではなかった。全力で突っ走り、ある日いなくなってしまって、困ったなあ、と私は思っています」

 このインタビューは、小出さんがよく行くそば店で行った。緊急事態宣言下の地域で今はできないだろうが、小出さんが「命のみず」と呼ぶお酒を飲みながら。テーブルを挟んで対角線上に座り、木内さんが大好きだった日本酒の杯を重ねながら。いつしか3時間が経過していたのだった。

     ◇

 小出さんには「女優編」でも登場していただくことになるだろう。次回(21日掲載予定)は木内さんの生き方に変更を迫った2011年3月11日に戻りたい。この日、どこで何をしていたのだろうか。




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