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「第五福竜丸」元乗組員 “死の灰”で被ばく 大石又七さん死去(2021年3月21日配信『NHKニュース』)

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昭和29年、アメリカの水爆実験に巻き込まれ太平洋のビキニ環礁で被ばくした「第五福竜丸」の元乗組員で、核兵器や被ばくの恐ろしさを訴え続けてきた大石又七さんが3月7日、誤えん性肺炎のため亡くなりました。87歳でした。

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大石又七さんは昭和29年3月1日、20歳の時に静岡県の焼津港に所属していたマグロ漁船の「第五福竜丸」の乗組員として太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁で操業中、アメリカの水爆実験に巻き込まれて22人の仲間の乗組員とともに放射性物質を含んだいわゆる「死の灰」を浴びました。

この被ばくから半年後、病院で治療を受けていた無線長の久保山愛吉さんが亡くなったほか、大石さんも脱毛や水ぶくれなどの症状が出て1年2か月入院し、放射線の影響におびえる生活を強いられました。

これをきっかけに全国に原水爆禁止運動が広がって日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の設立にもつながりました。

大石さんはみずからの体験を著書にまとめたり、各地で講演を行ったりして核兵器や被ばくの恐ろしさを世の中に訴え続けるとともに、原子力発電所の危険性についても警鐘を鳴らしていました。

大石さんは平成24年4月、脳出血で倒れて一時入院しましたが、その後もリハビリを続けながら証言活動を行っていました。

また、おととし6月からは神奈川県三浦市の高齢者施設で暮らしていましたが3月7日、誤えん性肺炎のため市内の病院で亡くなりました。

第五福竜丸平和協会コメント

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「第五福竜丸」は、現在、東京・江東区にある「第五福竜丸展示館」で保存・公開されています。

展示館を管理・運営する公益財団法人、「第五福竜丸平和協会」は、大石さんが亡くなったことを受けてコメントを出しました。

この中では、大石さんが昭和58年から証言者として活動し始め、これまでに合わせておよそ700回、第五福竜丸の前だけで、およそ500回もの講話を行ってきたことを紹介しています。

そのうえで、「大石さんはみずからの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別をはじめ社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも、社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました」としています。

そして、「大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界に向けて第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました」と結んでいます。

「第五福竜丸」の歴史

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「第五福竜丸」は昭和22年に建造され、戦後の食糧難の時代、カツオやマグロを取るための船として使われました。

そして、昭和29年3月1日、日本からおよそ4500キロ離れた太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁周辺で操業中にアメリカの水爆実験に巻き込まれ、大石さんなど23人の乗組員全員が被ばくしました。

これをきっかけに日本では原水爆禁止運動が高まり、広島と長崎に投下された原爆の被爆者の全国組織、日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の結成につながりました。

一方、「第五福竜丸」は政府が買い上げ、放射線量が低下したあと、当時の東京水産大学の練習船として使用されました。

そして昭和42年に廃船になり、東京・江東区のごみの埋め立て処分場に放置されていましたが、原水爆禁止運動のシンボルとして保存を求める声があがり、昭和51年、東京都が展示館を整備して保存・公開しています。

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昭和60年には、腐食が進んだ木材を取り替えるなどの大規模な改修が行われましたが、基本的な構造は建造当時のままです。
骨組みには、黒ずんだり、傷んだりした被ばく当時の木材が残されていて悲惨な歴史をいまに伝えています。

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当時の西洋型の木造船の姿を伝える意味でも、貴重な船となっていて、国内に現存する唯一の西洋型の木造船として去年、日本船舶海洋工学会の「ふね遺産」に認定されました。

日本被団協 田中代表委員 「仲間が亡くなり残念」

日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の田中煕巳代表委員(88)は「第五福竜丸の被ばくによって、より多くの人に被ばく者の苦しみが知られることになり、みずからの経験を伝え、核廃絶を実現しようという日本被団協の活動につながっていった」としたうえで、「大石さんはふだんは口かずは少なかったですが、証言活動の時には、人の心を打つ語りをしていたのがとても印象的で、大きな病気をされたあとも講演活動を続けていたので、頑張っておられるなと思っていました。一緒に行動してきた仲間が亡くなったのはとても残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。



「人生を懸けてビキニ事件語った」 元乗組員、大石又七さん死去(2021年3月21日配信『毎日新聞』)

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第五福竜丸展示館で語る大石又七さん=東京都江東区で2010年7月18日、手塚耕一郎撮影

 ビキニ事件について証言を続けた「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七さんの講演回数は700回を超えた。知人からは、その死を惜しむ声が上がる。

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第五福竜丸の模型船を子どもたちに披露する大石さん=川崎市の小学校で

 第五福竜丸展示館の学芸員、市田真理さん(53)は「人生を懸けてビキニ事件を語っていた」と振り返る。最後に会ったのは2019年12月。学生を連れて行くと、「話したいことがたくさんある」と言ったという。その後は新型コロナウイルスの感染拡大で面会がかなわず、「もう一度、一緒に講演する約束だったので、信じられない。命懸けで伝えようとしたことを受け継いでいかなければ」と声を詰まらせた。

 平和研究が専門の竹峰誠一郎・明星大教授(44)は「(差別や偏見から)第五福竜丸の船員の多くが沈黙せざるを得ないなか、大石さんは証言した先駆者。大石さんの存在なくしてビキニ事件の深さや背景は語れない」と功績を語った。大石さんと一緒にマーシャル諸島を訪ねており、「マグロやカツオの知識が豊富で、船に乗った時は輝いていた。被害を受けなければ太平洋の海と生きた人なのだろう。優しい人だったが、証言には悔しさや怒りがあった」と思いをはせた。

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ビキニ事件から60年の追悼式典前に地元の子供たちに囲まれる大石又七さん=マーシャル諸島・マジュロで2014年3月1日午前9時20分、山田奈緒撮影

 高知県でビキニ事件の被災者支援を続ける市民団体「太平洋核被災支援センター」事務局長の山下正寿さん(76)=高知県宿毛市=は「自らの体験を積極的に発信し、強い信念で活動していた」と話す。山下さんは高校教諭だった1988年、高校生と被災調査を進めるなかで大石さんと初めて知り合った。大石さんが生徒らを見つめ、「事件は隠してはいけない。事実を素直に受け止め、調査を頑張ってほしい」と強く訴える姿を今も覚えている。ビキニ事件をテーマにした講演会でも何度か顔を合わせたといい、「核被害の問題に広く関心を持ち、廃絶を訴えた人を失ってしまった」と惜しんだ。【椋田佳代、松原由佳】



「第五福竜丸」大石さん死去 米の水爆実験で被ばく、87歳―反核活動に注力(2021年3月21日配信『時事通信』)

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第五福竜丸元乗組員の大石又七さん

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修学旅行生の前で自身の体験を話す「第五福竜丸」元乗組員の大石又七さん(右端)=2018年5月、東京都江東区

 マーシャル諸島ビキニ環礁での米国の水爆実験で被ばくした遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員、大石又七(おおいし・またしち)さんが7日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため神奈川県三浦市の病院で死去した。87歳だった。葬儀は近親者で済ませた。

 1934年1月、静岡県吉田町生まれ。新制中学校を中退して漁師になった。第五福竜丸では冷凍士として乗船。54年3月1日、ビキニ環礁近海で操業中に水爆実験に遭遇、被ばくした。

 差別や偏見を恐れ、東京に移り住んでクリーニング店を営んだ。被ばくから約30年が過ぎた83年、都内の中学生からの依頼で初めて自身の体験を明かし、以降、講演活動に注力。小中学校を中心に、「核は人類に害を与え続ける」などと、平和憲法の維持や核兵器の廃絶を訴えた。 

 肝臓がんや糖尿病などを患い、2012年4月には脳出血で倒れた。右半身が不自由となったが、リハビリをしながら活動を続け、講演は700回を超えた。19年に三浦市の介護施設に入所していた。

 マーシャル諸島の島民とも交流があり、実験から60年となる14年3月には、「自分の強い思いを伝えたい」と首都マジュロでの追悼式典に参加。東京電力福島第1原発事故による海洋汚染の問題にも触れ、「核兵器も原子力発電も、私は断固反対します」などとスピーチした。

 著書に「死の灰を背負って」「ビキニ事件の真実」など。

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大石又七さん逝く(2021年3月22日配信『新聞』-「天風録」)

 丸木位里・俊夫妻の連作「原爆の図」には炎に焼かれる人々ではなく、核に抵抗する民衆を描いた作品がある。「焼津」と「署名」。米国が太平洋で強行した水爆実験で、静岡・焼津の第五福竜丸が被災したビキニ事件を題材とする

▲夫妻は立ち上がる民に希望を託したのだろう。広島・長崎に次ぐ核被害は日本中を恐怖に陥れ、原水爆禁止運動に火を付けた。一方、元乗組員の多くは偏見などにさらされ、口を閉ざす

▲それでも、若い世代に核の非人道性を語り続けた元乗組員がいた。大石又七さん。きのう悲報が届いた。「教訓を封じ込めたら人間はまた同じ目に遭います」。訴えをやめない理由をかねて本紙に語っていた

▲3年前、東京の第五福竜丸展示館を訪ねると病を押して学生に語る大石さんの姿があった。「人間はあまりに忘れっぽい」と悔しそうに訴えていた。福島の原発事故後も十分反省せず、目先の利益に飛びつくような社会に憤りを隠せなかったようだ

▲仲間が一人また一人と世を去っていたからだろうか。船体を見つめ、こうも話していた。「自分が消えても物は残る」。あまたの証言をして著作も残した。核に抵抗し続ける民のシンボルだった。







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