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日本人が全然知らなかった菅義偉「家の事情」…決して姿を見せない妻と突如浮上した“問題長男”(2021年4月4日配信『現代ビジネス』)

 「叩き上げ」の一語には、菅義偉という男の業と欲望が、菅を支えた妻の忍耐が、そして父の背中を求めた息子の葛藤が刻まれていた。国民に衝撃を与えた不祥事の「淵源」を、総力取材で明らかにする。

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家族は話題にしたくない


 横浜港と「みなとみらい」を一望するタワーマンション。その上層階の一室で、総理夫人・菅真理子は起居している。

 赤坂の議員宿舎住まいを続ける菅総理が、この私邸に戻ることはめったにない。そして真理子が政府や自民党関係者の前に姿を見せることも、公務を除いて一切ない。

 「去年の総裁選で、総理を支持する議員が『奥さんも前面に出たほうがいい』と真理子さんを担ぎ出そうとした。

 しかし選対幹部は『菅さんの奥さんはタブーなんだ。総理になってからも表に出ないことになっているから、総裁選の最中も絶対に話題に出すな。これは菅さんの意向だ』と諭したのです」(自民党関係者)

 真理子自身、決して積極的に人前へ出たがる性格ではない。しかし現職の総理が自らの妻を、まるでその存在すら秘するかのように扱うのは、いささか異様と言っていい。

 菅と真理子の長男・正剛が関与した、東北新社による総務省幹部接待疑惑が2月に発覚してから、菅内閣の支持率は低迷を続けている。

 「総理の息子」がその威光を利用し、まして中央省庁に便宜供与を求めるなど、前代未聞の不祥事である。

 なぜ事件は起きたのか。問題のありかは、ただ接待の中身や顔ぶればかりを追及してもわからない。

 菅義偉という政治家の半生と、これまで決して書かれてこなかった、菅の家族が抱える「家の事情」を考察しなければ、真の原因は見えてこない。

 真理子の住むマンションから南へ進むと、横浜最大の問屋街、そしてかつては「青線地帯」として知られた日ノ出町がある。46年前、菅は政治家としての第一歩をこの下町で踏み出した。

 「菅義偉です。よろしくお願いいたします……」

 '75年春、俯き加減で神妙に話す菅の姿を、ある横浜市政関係者は鮮明に覚えている。一帯を地盤とする衆議院議員・小此木彦三郎の私設秘書として挨拶にやってきたのだ。

 「当時、小此木事務所には『秘書』の肩書で出入りする若者が男女10人近くいて、菅さんは後ろから数えて2番目くらいの末席でした。当時は、地味で暗い奴だな、という印象だったね」

 秋田からの上京物語は、すでに多くのメディアで菅が自ら語っている。板橋の段ボール工場や喫茶店でのアルバイトを2年ほど転々とし、法政大学法学部に入学。

 卒業後はいったん一般企業に就職するが、一念発起し議員秘書に志願した。大学時代をともに過ごした、同級生の寺田修一氏が言う。

 「ある時、ヨシ(当時の菅の愛称)が突然『なあ、小此木彦三郎って知ってる? 』と言い出したんです。

 もちろんウチは横浜だから知ってるよ、と言ったら『俺、そこの秘書になったよ』って。政治家になりたいなんて、聞いたこともなかったのに」

女房を三歩下がらせて

 法政大の学生課を介して小此木事務所入りした菅は、秘書たちの最下層に組み込まれ、雑巾掛けの日々を送った。

 小此木事務所の一角にある3畳間で寝起きし、来る日も来る日も雑用をこなす。

 鞄や荷物持ち、車の運転、屋敷の掃除に郵便整理、出前の受け取り……。車の後部座席に座る小此木に足蹴にされ、「出ていけ!」と怒鳴られることもしばしばだった。

 だが、つらい日々の中にも唯一、救いがあった。菅の後に事務所入りした、5歳年下の女性との出会いである。

 小此木家の家事をしたり、当時小学生だった彦三郎の息子・八郎(現在は衆院議員・国家公安委員長)らの面倒を見ていたこの女性こそ、真理子である。

 当時の小此木家は、秘書らも揃って朝食をとる慣わしだった。真理子はその朝食作りを担当するようになった。

 独身男の胃袋に、熱い味噌汁が沁みた。アプローチをかけたのは菅のほうだったという。当時を知る横浜自民党関係者が語る。

 「真理子さんは余計なことは言わず、朝一番に事務所に来て黙々と働いているような清楚な人だった。秋田弁が抜けずに口下手な菅さんにも、優しく接していた」

 出会いから3年ほどが経った'80年5月、菅と真理子は結婚する。だが当時、小此木事務所の内部や横浜の自民党関係者らの間では、こんな噂が立つようにもなっていた。

 「真理子さんは再婚らしい」

 本誌は真理子が生まれ育った静岡市清水区(旧清水市)を訪ねた。以下は真理子の実兄・隆さん(仮名)との一問一答だ。

 ―そもそも真理子さんは、なぜ小此木事務所に入ったのですか。

 「最初のきっかけは偶然です。母と真理子、妹の久美(仮名、末の妹)が、久美の就職先探しをかねて横浜へ旅行しました。

 その時、元町で開催されていたバザーに立ち寄ったら、小此木彦三郎さんの義理のお母さんが露店を開いていたんです。

 立ち話をしているうち、『うちは孫がたくさんいて大変なんです。よかったら面倒を見てくれませんか』と言われ、久美が小此木さんの世話になることになりました。その後、真理子も呼んでもらったわけです」

 ―真理子さんは横浜に行く前、地元で結婚していたとも聞きました。それは本当でしょうか。

 「若い頃のことですから……向こう(前の夫の家)にも迷惑がかかるし、話したくないですね」

 ―大学を出て、すぐに嫁いだのですか。

 「ええ。就職はしていません。いずれにしてもこの件は、真理子も『先方に迷惑をかけてはいけない』と心配しているので(勘弁してほしい)」

 隆さんや事情を知る地元住民の話を総合すると、真理子は'75~'76年ごろ、いちごの名産地として知られる、駿河湾沿いの久能街道近くのいちご農家に嫁いだ。

 しかし、姑や夫の姉妹との折り合いが悪く、半年ほどで実家へ戻ったという。

 '53年、清水市内の食料品卸店に生まれた真理子は、県内有数の進学校・清水東高校に進んだのち、静岡女子大学(現・鈴岡県立大学)を卒業している。

 大卒女性が農家に嫁入りすること自体が異例の当時、「農家の金目当てで結婚して失敗した」と言いふらす、口さがない人もいた。

 横浜という新天地で得た菅との出会いは、彼女にとっても大きな励みとなっただろう。

 真理子の目に菅はどう映っていたのか。少なくとも彼女が選んだ伴侶は、平凡な議員秘書で終わるのをよしとしない、権力を渇望する男だった。

 菅は小此木事務所の先輩秘書らをごぼう抜きし、小此木が通産大臣に就任すると、'84年に大臣秘書官の座を射止める。以後、'87年の横浜市議選で初出馬初当選、'96年には国政に打って出た。

 「女房と手を繋いで歩くなんて、男じゃねえ。女房は三歩下がらせて歩かせるんだ」

 議員バッジを得た菅は、自民党の市会議員らにそう言うようになったという。

 選挙となれば、一日に数百軒の挨拶回りをこなし、あらゆる家の郵便受けに一筆加えた名刺を入れるのが菅流だ。

 しかし菅が真理子に要求したのは、自身の傍らで笑顔を振りまくのではなく、ひたすら陰で地道に菅を支える役割だった。

 「真理子さんが朝早く選挙事務所で掃除をしているのにスタッフが誰も気が付かないとか、一般のスタッフだと勘違いされて買い出しに行かされる、ということもありました。

 それでも不満は一切口にしないし、とにかく目立たない。菅さんのためなら『無私』になれる、真理子さんはそういう人です」(自民党神奈川県連の関係者)

長男・正剛がこぼした言葉

 政治家となってからの菅は、真理子を極力目立つ場所に置かないようにしてきた。そして総理となった現在でも、冒頭で見たように、議員らに真理子を「禁忌」扱いさせている。

 その背景には、真理子と家庭を築くまでの、こうした「複雑な事情」があったのだ。

 そしてその事情は、菅家にまつわる、また別の憶測を招くことにもなった。国政を揺るがした長男・正剛は、菅と真理子の子ではない―具体的には真理子の連れ子である、というものだった。

 菅をよく知る関係者によれば、噂の発端は正剛自身の言葉だったという。

 「正剛さんの弟にあたる次男は東大を出て三井物産、三男は大成建設に入社して立派に社会人をやっている。

 一方、正剛さんは明治学院大学を卒業するとバンド活動に明け暮れ、事実上フリーターとなり、見かねた菅さんが総務大臣秘書官をやらせた。

 それで自虐を込めてでしょうか、正剛さんが『俺は(弟達とは)親が違うから』と口走ることがあったのです」

 菅夫妻の間には、'81年に長男の正剛が、'84年に次男が、そして'86年には三男が生まれている。とりわけ正剛は、父である菅が秘書から市議へ、そして市議から代議士へと地歩を固めていく渦中に、多感な時期を過ごした。

 正剛誕生のあと、菅は本格的に小此木事務所の「番頭」への道を歩み始めていた。愛車のトヨタ・マーク2で早朝出かけ、深夜に戻る。

 昼も夜も土日もなく働き、いつも両目は充血していた。身を粉にして働く菅を小此木も重用した。前出と別の横浜市政関係者が言う。

 「当時、こんな話を聞きました。小此木事務所の秘書たちは、夜は各担当地区の会合に顔を出して、そのまま直帰していた。

 でも菅さんは必ず夜中に事務所に戻り、ひとりで灯りをつけて座っていた。小此木さんのスケジュールを把握して、帰宅時間を見計らっていたんです。

 それを見て小此木さんは『遅くまでよくやってるな』と感心するんですが、他の秘書は『あの野郎、点数稼ぎしやがって』とこぼしていた」

 一方、仕事にのめり込む菅を横目に、真理子はひとり正剛のお守りをする日々を送った。

 当時、実家が所有するアパートを格安で菅一家に貸していたという、前出の友人・寺田氏が証言する。

 「正剛くんはよく泣く子で、夜泣きも多かったので、真理子さんが育児ノイローゼにならないか心配でした。

 ヨシのお姉さんが訪ねてきた時、『ヨシも小さい時はよく泣いてた。菅家の血ね』と言っていたのを覚えています」

因果な商売のツケ

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 そして三男が誕生した直後の'87年、横浜市議選で菅は初当選を果たす。3人息子をほぼ女手ひとつで育てることになった真理子は、子どもたちを連れて清水の実家に身を寄せることもあった。

 成長した正剛は、地元の少年野球チームに入った。だが、菅が練習に付き合ったり、試合を見に来たりすることはなかった。横浜市議の清水富雄氏が証言する。

 「最初の市議選で選挙戦をお手伝いしてからご縁が続いていますが、当時の真理子さんは子育てで大変そうでしたね。

 『明日、正剛の少年野球の試合があるんだけど、お父さんがいないからキャッチボールしてあげてくれませんか? 』と言われて、相手をしたことも何度かあります」

 自身の野望のために、家庭を顧みようとしない父の姿は、少年・正剛の心に傷を刻んだ。

 家庭を、母を、自分を軽んずる父への反発だろうか。名門の逗子開成中高に進学した正剛は、「政治家の息子」として扱われることに強い嫌悪を示すようになったという。

 こうして積み重なった菅への不信と疎外感が、正剛に「俺は親父の子じゃない」という思いを抱かせたのかもしれない。

 今回、前出の真理子の兄・隆さんをはじめ、事情を知る清水や横浜の関係者を取材した限りでは、正剛が菅の実子ではない、真理子の連れ子である可能性は低い。

 真理子は大学を出てすぐの'75~'76年に前夫と結婚したが、遅くとも'77年までには実家に戻っている。正剛は'81年生まれなので、時期が合わない。

 菅は正剛の接待疑惑が報じられたあと、国会で「(息子は)完全に別人格」と述べた。

 しかし菅はこれまで、前述のように正剛を自身の大臣秘書官にし、正剛が東北新社で「総理の息子」の威光を利用することも黙認してきた。

 それは菅の中に「家族を打ち捨て出世に邁進した結果、わが子の人生を台無しにしてしまった」という罪の意識があったからではないか。その贖罪のために、菅は大人になった正剛を甘やかしてきたのではないか。

 かつて、菅の母・タツは横浜のある支援者に、こうこぼしたという。

 「義偉は、因果な商売についてしまったねぇ」

 叩き上げを謳い、「底辺」から「頂点」へ成り上がるには、他人を蹴落とすだけでなく、家族をも犠牲にしなければならなかった。

 その「因果」が、いま巡り巡って菅自身にはね返って来ている―。そして総理の抱える業は、最後は国民が引き受けることになる。(文中一部敬称略)

 『週刊現代』2021年4月3日号より



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