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<つなぐ 戦後74年>(2019年8月16日配信『東京新聞』)

天皇陛下 先の大戦「深い反省」 戦没者追悼式

 終戦から74年を迎えた15日、元号が令和となって初となる政府主催の「全国戦没者追悼式」が東京都千代田区の日本武道館であり、4989人の戦没者遺族が、先の大戦で犠牲になった約310万人を悼んだ。参列予定者に名を連ねた遺族のうち、3割は戦後生まれ。今回初めて参列された戦後生まれの天皇陛下とともに、恒久平和と不戦の継承への思いを強くした。 

 陛下は皇后さまと参列し、「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」と述べた。戦争体験者や戦没者遺族の苦しみに深い理解と共感を示し、先の大戦について「深い反省」と述べてきた上皇さまの表現を、ほぼ引き継がれた。

 台風10号の影響で参列を断念した宮崎県の遺族団(付き添い含め約六十人)など急きょ来られなくなった人もいた。当初、参列を予定していた遺族5391人のうち、戦後生まれは1650人30・6%)で、初めて3割を超えた。戦後70年だった4年前と比べ、人数、割合と1・5倍に増えている。

 遺族代表の森本浩吉(こうきち)さん(77)=横浜市=は追悼の辞で、風化を懸念しつつ「戦没者を追悼し平和を祈念する日だと全ての国民が胸に刻み、ご英霊に感謝し、しのんでいただく日々となることを望んでいます」と述べた。夫を沖縄戦で亡くした、この日の最年長遺族内田ハルさん(97)=東京都八王子市=は取材に「私たちのように悲しい思いをしている人がたくさんいる。戦争は絶対に、しちゃいけない」と訴えた。

 追悼式で献花補助者を務めた前橋市の高校3年、浜田有咲(ありさ)さん(17)は取材に「上の人が決めて、国民もついていかなければならないのが戦争。民主主義とかの根幹が揺らぎ、人が傷つく。絶対にしてほしくない」と話した。曽祖父を2人、戦争で亡くしており、不戦の誓いを強く抱いている。

 宮内庁によると、上皇ご夫妻は住まいの皇居・吹上仙洞御所で式典の様子をテレビで見守り、黙とうした。



<つなぐ 戦後74年>忘れない 伝えたい 平成生まれ4人に聞いた

 元号が令和となって初の終戦の日を迎えた15日。平成生まれの若い世代は、家族から伝え聞いた戦争の記憶を引き継ぐ決意を語り、世界で今も続く戦争にも思いを馳(は)せた。(石原真樹、梅野光春、小倉貞俊、柏崎智子) 

◆父の思い受け継ぐ @文京シビックホール 松原瑠子さん(11)

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 東京都北区の小学5年松原瑠子さんは、父の義孝さん(54)が全国戦没者追悼式を毎年手伝っていることが不思議だった。祖父の兄は戦死したが、祖父は特攻隊で出撃する前に終戦になり、助かっていた。父に理由を尋ねるとこう返ってきた。「おじいさんは戦争で亡くなった方への思いが強かった。熱心に遺族会の手伝いをしていて、その気持ちを受け継ぎたいからだよ」

 15日、文京区の文京シビックホールで開かれた都戦没者追悼式に遺族代表として出席。追悼のことばでこのエピソードに触れながら「私も父の思いを受け継いでいきます」と誓った。

◆兵器使ってはダメ @十思公園 奈良英紀さん(13)


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 東京都中央区の中学1年奈良英紀さんは、友人と十思(じっし)公園(同区)の鐘つきに来た。10歳のころ初めて母と来てから、「戦争で亡くなった方の供養になるように」と毎年、足を運んでいる。

 近所に住む祖母から「戦時中は食料がなく、田舎の親戚からもらっていた」と体験を聞いた。小学5年で東京大空襲や学童疎開を学んだこともあり、「戦争があると民間の人も苦しむ。だからよくない」と考えている。

 戦闘機や軍艦を見て、かっこいいと感じることもある。「でも見ているだけでいい。兵器を使ってはいけない」と語った。

戦争の悲惨さ学ぶ @千鳥ケ淵 岡本拓真さん(14)

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 東京都大田区の中学3年岡本拓真さんは「戦争について、もっと詳しく知りたい」と昨年に引き続き、父の隆晴さん(47)と一緒に、千鳥ケ淵戦没者墓苑(千代田区)に足を運び、手を合わせた。

 海軍の兵曹長だった拓真さんの曽祖父の弟は、終戦の年の5月、南方の海域で戦死した。

 遺骨も残らなかったと聞き、「何て残酷なことが起きたんだ」と痛感。学校で学ぶだけでなく、戦争に関する映画や本を通じて理解を深めている。時代は平成から令和になったが、「決して忘れることなく、僕たちが伝えていかなければ」と思いを強くしている。

◆争い生む種身近に @中野の映画館 嶋田康平さん(28)

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 東京都中野区の映画館「ポレポレ東中野」で政治をテーマにした映画の特集を見に来た足立区の嶋田康平さんは「平成の間、日本で戦争はなかったが、世界ではテロや紛争が頻発し、自衛隊も海外派遣された。終戦記念日だから特別に考えるというより、戦争は今も続いていることとしてとらえている」と話す。

 高校時代、パレスチナ・ガザ紛争に衝撃を受け、大学生になるとイスラエルやルワンダを訪れた。卒業後は公務員になったが、今年7月に退職。「人と人の争いを生む種は、貧困など身近な生活にある。研究機関など解決に携われる仕事をしたい」



不戦や平和 誓い、学ぶ 二度と戦争、起こさない 都追悼式に900人

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追悼のことばを述べる松原瑠子さん(左から2人目)=文京区の文京シビックホールで

 「令和」になって初めてとなる終戦の日の15日。都内各地でも、戦没者を悼み、不戦、平和の誓いを新たにする式典や、戦争の悲惨さを学ぶ催しがあった。

 都戦没者追悼式は、文京区の文京シビックホールで開かれ、遺族ら約900人が参列した。

 遺族を代表したあいさつで、狛江市の武藤孝行さん(77)は945年に父親が現在のパプアニューギニアでの戦闘で死亡し、空の遺骨箱を受け取った記憶を振り返った。現地での遺骨調査・収集活動に毎年参加しており、「一柱でも多く、早く収容し帰還させたい。われわれ遺族の切なる願いは、二度と戦争はあってはならない、起こしてはならない、してはならない、日本も世界も平和であり続けてほしい」と呼び掛けた。

 北区の小学5年松原瑠子(りこ)さん(11)は「犠牲になった人たちの、国の平和と家族の幸福を願う強い思いのうえに築かれていることをきちんと受け止め、忘れてはいけない」と述べた。

 小池百合子都知事は「悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない」と決意を示し、「東京2020五輪・パラリンピック大会まであと1年。平和の祭典を必ずや成功させ、先人たちの願いであった夢と希望にあふれた平和な世界を、次世代へと引き継いでまいります」と述べた。



犠牲者へ誓う平和 横浜で戦没者追悼式 

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献花する遺族ら=横浜市港南区で

 終戦の日の15日、太平洋戦争の県内の犠牲者を悼む戦没者追悼式(県遺族会主催)が、横浜市港南区の県戦没者慰霊堂であった。各市町村の遺族会代表ら約150人が参列し、正午の時報に合わせて黙とう。犠牲者に思いをはせ、平和への誓いを新たにした。 

 黒岩祐治知事は「今の平和と繁栄は、戦争で命を落とした方々の尊い犠牲の上にあることを忘れてはならない」と追悼の辞を述べた。今年六月に県遺族会長に就いた岩田全弘(まさひろ)さん(82)=大磯町=は「祖国の平和と発展を願いながら命を落とした方々の無念を思うと、万感胸に詰まるものがある。戦争の惨禍と平和の尊さを孫、ひ孫の世代に継承するのが遺族会の使命だ」と祭壇に誓った。

 岩田さんの父は毛織物の仕入れ販売をしていたが、1944年7月にフィリピン・セブ島に軍事拠点を整備する要員として出兵。翌45年7月30日に戦死したという。岩田さんは「厳しい父だった。平塚まで遺骨を取りに行った記憶は残っている」と話した。

 慰霊堂には、県内の軍人と軍属ら5万8506人の名簿が納められている。遺族会の人数は1万530人で、最盛期の4分の1に減った。活動を次世代につなぐため昨年、孫の世代でつくる青年部を創設し、現在32人が参加している。

 岩田さんは「さらに人数を増やしたい。ただ、働いているので平日の式典に来られないのが課題」と語った。 



聞こえぬ警報、空襲の恐怖 聴覚障害の戦争語り部・樗沢加津人さん

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戦時中の暮らしを振り返る樗沢(ぶなさわ)加津人さん=千葉市内で

 「空襲警報が聞こえないから、発令時に出張所に掲げられる旗が頼りだった」。聴覚障害がある佐倉市の樗沢(ぶなざわ)加津人さん(82)は戦時中、音が聞こえない中を米軍機の空襲から逃げ惑った。戦後は障害への差別に直面。「生きることで精いっぱいだった時代を知ってほしい」と、恐怖や苦難の体験を子どもたちに語り継いでいる。 

 山口県宇部市で八人きょうだいの末っ子として生まれた樗沢さん。3歳のころに高熱を出して耳が聞こえなくなった。太平洋戦争が開戦したのは4歳の時だった。

 空襲警報が頻繁に鳴るようになり、近所の市役所出張所には、警報発令中に赤旗、解除時は白旗が掲げられるようになった。

 ある日、空腹に耐えかね、聴覚障害がある友人と貝を採りに出掛けた。出張所の旗を見ると、白。安心して海岸に向かい、夢中で貝を探していると、いつのまにか周りに友人以外誰もいないことに気付いた。突然、体に太鼓をたたくような強い震動が響き始めた。

 顔を上げると、数十メートル先に停留中の船の周りを、4機の小型機が旋回していた。操縦席にサングラスをかけた外国人の顔が見え、青ざめた。「敵機だ!」。海面に水柱が上がった。必死で岸壁をよじ登って逃げ、振り返りもせずに防空壕(ごう)へと駆け込んだ。初めて、死の恐怖を体感した。

 1942年には、広島県大朝町(現北広島町)に家族と疎開。空襲の恐怖は遠ざかったが、45年8月6日朝、畑仕事をしていると、爆発音に気づいた姉が驚いた様子で広島市の方面を指した。遠くの山々の間に、きのこのような形の雲が浮かんでいた。「空襲かな」。無音の中、雲の下の惨状を知るよしもなかった。

 自宅にはラジオがなく、家族がいつ終戦を知ったのかは分からない。樗沢さん自身は、出征した長兄が弁当箱だけを手に戻ってきた秋、初めて戦争が終わったのだと気づいた。

 家族で宇部市へ戻る道中、広島市内に降り立ち、がくぜんとした。電柱も家屋もすべて倒れ、焼け尽くされて皮膚や髪が燃えたような強烈な異臭が漂っていた。多くの命が奪われたことは一目瞭然だった。

 46年に宇部市のろう学校に進学。自立しようと18歳で靴職人の見習いを始め、地元や新潟県の靴店で働いたが、どんなに働いても無給。耳が聞こえないことをばかにされ、差別と偏見に悔しさが募った。ようやく生計が立てられるようになったのは、25歳で東京に移ってからだった。

 その後、千葉県に移り、約10年前から、県内外の小学校で自身の戦争体験を語るようになった。人々の意識が変わったように感じたからだ。「平和が当たり前になり、大切さに疎くなっている気がしている。戦争の苦しさを伝え、平和への思いを引き継いでもらいたいんです」



軍都・埼玉の面影 所沢周辺、戦跡巡るツアールポ

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航空自衛隊入間基地(奥)の歴史について、ガイドから説明を受けるツアー参加者たち=入間市で

 第2次世界大戦で連合国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言を受信した通信所、操縦兵や整備兵の育成を担った日本初の飛行場-。所沢市周辺に残るそんな戦跡を巡るツアーが6日、実施された。歴史にかかわる学者や教職員らでつくる歴史教育者協議会(歴教協)の企画。記者も同行し、かつて「軍都」と呼ばれ、今も米軍や自衛隊関係の施設が多い埼玉の歴史的な背景を改めて心に刻んだ。 

 まず向かったのは、新座市と東京都清瀬市にまたがる米軍大和田通信所。かつての旧日本海軍大和田無線通信所跡だ。10年ほど前までは当時の建物やアンテナも残っていたが、既に撤去されたという。間近で見た現在の通信所は鉄柵で覆われ、米軍が使っている巨大なクモの巣形のアンテナがそびえ立っていた。

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ポツダム宣言を受信したとされる旧日本海軍の通信所跡。現在は司令官搭乗の指揮機と通信するという米軍のクモの巣形アンテナが設置されていた=新座市の米軍大和田通信所で

 歴教協によると、旧日本軍の中で受信機能が際立っていた大和田は終戦間際、ポツダム宣言のほか、広島と長崎に落とされた原爆搭載機の離陸も受信したとされる。ツアー参加者は歴史的な重みを胸に真剣な表情で見入り、猛暑の中、しきりにカメラのシャッターを押していた。

 続いて、所沢市へと移動。たくさんの人がくつろぐ所沢航空記念公園(同市並木1)内には、長方形の大きなくぼ地があった。幅50メートル、長さ400メートルはあるだろうか。

 「ここが日本初の飛行場滑走路の跡地です」

 歴教協会員の篠原謙さん(69)が教えてくれた。元々はサツマイモの産地で、土質が軟らかかった。そのため、小石を敷き詰めた上にクローバーなどを植栽し、飛行機の離着陸に耐えられるようにしたのだという。

 旧日本軍の時代、所沢飛行場は少年を含む操縦兵や整備兵の育成を担った。

 「戦争で航空機を活用する人材を育て、(結果として)相手国の人々の被害を増幅した。こうした『負の遺産』から目をそらすことなく、共有財産にすることが、平和都市になる第一歩だと思う」。篠原さんが力を込めた。

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日本初の飛行場滑走路の跡地=所沢市の所沢航空記念公園で

 通信所跡や飛行場跡といった所沢周辺の戦跡はいずれも旧日本軍の施設で戦後、米軍に接収された。地元自治体や市民らが粘り強く返還運動を続けた結果、狭山市と入間市にまたがる旧日本陸軍航空士官学校があった場所が全面返還されたものの、航空自衛隊入間基地に。所沢市では飛行場跡の一部が航空公園になったが、米軍所沢通信基地として残った部分もある。

 大和田と所沢の米軍施設は、いずれも米軍横田基地(東京都福生市など)の通信施設として今も使われている。所沢通信基地では、横田基地の工事残土を搬入するダンプカーが激しく出入りしていた。地元は搬入に反対したが、聞き入れられず、今月9日には米軍に基地の一部返還を求める要請書を出した。昨年7月にはオスプレイが離着陸するなど、米軍基地があることへの市民の不安は大きい。

 「埼玉には『軍都』の面影が強く残っているね」。ツアーを通して何人もの参加者が口にした言葉だ。軍関係施設が多く、軍隊が産業や市民生活に大きく影響した地域。その歴史は今も尾を引いている。身近な戦跡を巡り、記者自身も改めて実感した。



終戦記念日 戦争体験者から話を聞く 茨城県立歴史館

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会場では投下された焼夷弾の金属容器や砲弾の破片などの展示も=いずれも水戸市で

 戦後74年となる終戦記念日の15日、戦争体験者から話を聞く催しが水戸市の県立歴史館で開かれた。海軍の少年兵だった大谷岩男さん(88)と、中国・北京で終戦を迎えた柏俊子さん(80)=ともに市内在住=がそれぞれ講演。参加者は「二度と戦争を起こしてはいけない」と改めて不戦の思いを強くしていた。

 催しは、市立博物館が主催。「わたしは戦争を忘れない-昭和20年8月『あの日』の記憶-」と題し、講演のほか、1945年8月2日の水戸空襲の解説などがあった。

◆海軍少年兵・大谷岩男さん(88) 黙って志願、母「行かないで」

 大谷さんは14歳の時、当時の男子の憧れだった海軍飛行予科練習生(予科練)に親に黙って志願し、合格。それを打ち明けると、母親に「行かないで」と泣かれた。だが、一度決心した入隊をあきらめられず、45年4月に水戸を出た。

 和歌山県の部隊を経て、6月に現在の笠間市にあった筑波海軍航空隊に配属され、終戦までを過ごす。特攻隊として散った仲間もいた。広場で整列して聴いた昭和天皇の玉音放送は、14歳の少年には意味が分からなかった。

 水戸に帰ったのは8月28日の夕方。ドラム缶の風呂に漬かりながら、薪の明かりに照らされた母親と軍隊生活について話したのが忘れられない思い出という。「戦争は恐ろしく、みじめで悲しい。自分の過酷な体験を子孫の代まで遭わせてはならない」と平和の尊さをかみしめた。

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筑波海軍航空隊での体験を振り返る大谷岩男さん

◆北京で終戦迎える 柏俊子さん(80) 九州まで貨物船「生きて帰れて良かった」

 柏さんの父親は北京の日本領事館勤務で、幼いころは裕福な生活だった。だが、8歳で迎えた終戦を境に、環境は一変。日本人の女性や若者が中国人に連れ去られる光景も目にした。46年1月に、日本へ引き揚げることになった。

 貨物列車で移動中に線路が爆破されたが、柏さん一家は後ろの車両に乗っていて命拾い。そこからは牛車に乗り、35日かけて青島(チンタオ)の日本人収容所にたどり着いた。その間、食事をした記憶が全くないという。

 九州に向かう貨物船で、誰かが「内地が見えてきたぞ!」と歓声を上げると、体力も気力も尽き果てていた人たちが一斉に立ち上がり、喜び合った。「生きて帰れて良かった」と振り返り、「多くの国民が犠牲になって今の平和と繁栄がある。敗戦の中から生まれた平和憲法を世界に広めたい」と締めくくった。

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北京からの引き揚げ体験を語る柏俊子さん

 講演に先立ち、戦争を語り継ぐ活動を続ける元市立博物館長、玉川里子さんも登壇。約5万人が被災した水戸空襲について、米軍機がまいた空襲を予告するビラや、炎上する水戸駅を描いた絵などをスライドで示しながら解説した。

 会場には、市内に落とされた焼夷(しょうい)弾の金属容器や、米軍艦から撃ち込まれた砲弾の破片などの展示も。食い入るように見つめていた水戸市の緑岡中1年、栗原侑誠(ゆま)君(12)は「実際に戦争を体験した人の話を聞いて、本当にこんなことがあったんだと驚いた。二度と戦争を起こしてはいけないと思った」と話した。



平和への思い 新たに 宇都宮で栃木県戦没者追悼式

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正午の時報に合わせ、黙とうする人々=宇都宮市で

 県戦没者追悼式が15日、宇都宮市の県護国神社であった。暑く、強い日差しが降り注ぐ中、遺族ら約269人が出席。令和最初となる終戦の日に、平和への思いを新たにした。

 県戦没者合同慰霊祭執行委員会が主催。同委の名誉会長として福田富一知事が出席し、「私たちは先の大戦から学びとった教訓を心に刻み、恒久平和を願い、全ての県民が幸せな生活を営むことができる社会とするよう努力してまいる」と追悼の言葉を述べた。

 会場には、東京都内で開かれた政府主催の全国戦没者追悼式を中継するラジオ放送が流された。正午の時報に合わせて、出席者全員が黙とうした。

 終了後、一部の遺族が取材に応じた。毎年参列しているという野木町の男性(86)は、太平洋戦争末期にニューギニアで叔父=当時(22)=が戦死した。子供のころ一緒に遊んでくれた姿を思い出すといい、「戦後になって、家族に戦死の知らせがきた。遺骨も何もなかった」と振り返った。

 終戦から74年。日本を取り巻く国際情勢の変化や世界の現状などを見て、男性は「だんだんときなくさくなっている」と危惧した。その上で「今度戦争が起きたら全てが一発で終わってしまう。平和の尊さをいまの若い人たちには分かってほしい」と静かに語った。

 別の野木町の男性(81)は、1942年に父親がソロモン諸島の海域で戦死した。「家族には書面で知らされただけ。魚雷の攻撃を受けたということで遺体も何もなかった。戦争はしてはならない」と話した。



平和の尊さかみ締め 群馬県戦没者追悼式に1700人 

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平和への誓いを読み上げる若者代表の高校生2人=前橋市で

 終戦から74年を迎えた15日、県戦没者追悼式(県主催)が前橋市の県総合スポーツセンターで営まれ、遺族約1100人を含む約1700人の参列者が平和の尊さをかみ締めた。激戦地だった西太平洋のパラオ諸島で叔父を失った男性は、子どものいなかった叔父が当時は高価だった木製の三輪車を贈ってくれた思い出を胸に故人をしのんだ。 (菅原洋)

 「叔父は東京のデパートで三輪車を買ってくれ、何度も乗った。当時は珍しくて、近所の子どもたちと取り合いになるほど。優しく、いい叔父さんだった」。高崎市の元会社員、友松由一(よしかず)さん(81)は追想する。

 叔父の三郎さんは戦前にまず中国の旧満州へ出征し、パラオ諸島へ行く前に友松さんの家へ寄った。その際に三輪車を渡された。

 「叔父は結婚していたが、子どもがなく、自分を自身の子どものように思ったのだろう。叔父が亡くなった後は、その奥さんが自分をかわいがってくれた」と述懐する。20代で戦死した叔父の遺骨は戻らず、骨つぼ代わりの木箱の中は小石一つだけだったという。

 叔父への思いが募った友松さんは6年ほど前、パラオ諸島を訪問。「青く澄んだ海と対照的に、戦車や鉄かぶとの残骸が点在していた。こんな所で亡くなり、寂しかっただろうと涙がこぼれた」と振り返る。

 「戦争はこうして人々のつながりを引き裂く。本当に悲惨だ。この思いを子どもや孫たちに伝え続けたい」と言葉に力を込めた。

 追悼式は57回目を迎え、山本一太知事が「苛烈を極めた戦場において、古里のご家族に思いをはせながら倒れた方々などのご無念を思うと、万感胸に迫り、哀惜の念に堪えない」と式辞を述べた。

 若者代表として桐生高2年の出口恭聖さんと桐生女子高2年の義山美海(みう)さんが「世界各地で起きている紛争や武力衝突で尊い命が失われており、多くの子どもたちが自分の夢を語れる環境にありません」と平和への誓いを読み上げた。最後に参列者の代表らが祭壇へ献花した。

 県によると、県内出身の戦没者数は軍人らと民間の計約5万人だった。





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