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よそ者として知った水俣病 患者を支え、そして自らも(2019年9月30日配信『朝日新聞』)

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政治決着の受け入れを決めた水俣病患者連合の代表世話人会。「1人だけでも闘い続けたかった」と話す宮本巧さん=1995年10月11日午後7時50分、熊本県水俣市袋の相思社

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患者運動の同志、川本輝夫さんをしのぶ「咆哮(ほうこう)忌」に参加した宮本巧さん。後ろの写真はチッソ本社で交渉していた当時の川本さん=2013年2月24日午後0時46分、熊本県水俣市旭町1丁目

 縁あって水俣を訪れ、水俣病を知った。患者を支え、自らも病を得た。被害を認めない行政と対峙(たいじ)し、妥協を排して闘った。「よそ者」として暮らし始めて60年。ふるさとになった水俣で生涯を閉じた。

 宮本巧(たくみ)さん=熊本県水俣市。水俣病訴訟の元原告団長で、被害者への補償実現に尽くした。8月13日、水俣市内の病院で急性肺炎で息を引き取った。享年90。家族や親類に見守られての静かな最期だった。自宅は公表していない。

 大津町の出身。1959年、とび職人として水俣市内の建築現場に働きに来た時、海辺の集落の娘と出会う。「一緒になりますけん」と義父にあいさつすると、「うして(捨て)ちゃくるんな」と言われた。家族は水俣病の災禍に見舞われ、困窮していた。

 この頃、水俣病の公式確認から既に3年。原因がチッソの工場排水であることが熊本大の研究で突きとめられていたが、その責任はあいまいなままだった。妻(85)の実家を含む29世帯112人が69年、チッソに損害賠償を求めて起こした訴訟を応援した。実家を支えるため、義弟と海に出て、家業の漁を手伝った。義父の言葉を終生、胸に刻んでいた。

 73年に患者家族が起こした訴訟でチッソの責任が確定すると、沈黙していた人々が患者認定を求めて列をなした。県の審査は停滞。国は認定基準を厳しくし、被害が認められず棄却される人々が急増した。図抜けた発想と行動力で患者運動を率いた川本輝夫さん(1931~99)を慕い、救われない被害者のために共に奔走した。チッソが地域経済に支配的な影響力を持った水俣の街で、差別・偏見を恐れて声を上げられない人々に寄り添った。

   ◇

 水俣病の公式確認後もチッソは68年までメチル水銀の排出を止めず、行政も漁を禁止しなかった。漁をし、魚を食す日常は、健康自慢の宮本さんの体もむしばんだ。激しい耳鳴り、頭痛、手足のしびれ。疲れやすくなり30代半ばで力仕事ができなくなった。73年に患者認定を求めたが「保留」となり、結論を先送りされた。「自分がこげんなったとは、県が何もせんかったからじゃ」。無念の思いを、宮本さんら患者家族を支えた中村雄幸(ゆうこう)さん(68)は聞いている。宮本さんの妻は結婚後、患者認定。自らの被害と家族の病苦は、闘いの原動力になっていた。

 戦中派として教育勅語をそらんじ、興に乗じて一部を変えては、忠君愛国をやゆした。支援者の一人、高倉史朗さん(68)は「権力に反抗することを恐れない人。水俣病を起こしたチッソ、熊本県、日本国に対する怒りを宿していた」。認定申請の急増に対し、かき集めた医師で数をさばくような県の集中検診が問題になると、宮本さんは受診を拒否。認定業務の遅れによる精神的苦痛を訴え、損害賠償を求めた「待たせ賃訴訟」を仲間と起こす。2001年に最高裁で敗訴が確定するまで法廷闘争は22年余に及んだ。

 本来は目立つことを好まない。周囲を引っ張るタイプでもない。それでも85年から水俣病認定申請患者協議会(後の水俣病患者連合)会長を務めた。引き受け手がなく、「器じゃない」と自覚していたが一肌脱いだ。

 95年は一つの転機だった。訴訟や認定申請の取り下げと引き換えに、水俣病とは認めずに一定の金銭を払う政治決着が図られた。患者連合を含む多くの被害者団体が応じた。

 当時、患者連合の事務局長だった高倉さんは、ぎりぎりまで態度を示さなかった宮本さんの姿を覚えている。「自分は水俣病だ、水俣病でなければ何なのか、という確信が宮本さんにあった」。県の認定審査会資料にさえ、典型症状の感覚障害や運動失調を示す所見が記されていた。それでも最後は政治決着に応じた。団体の中核にいる自分の判断が及ぼす影響に苦慮した末だった。「すべてが終わった後、俺は応じたくなかったと言っていた」と高倉さん。

 運動の一線から身を引いた後も、闘う人々に心を寄せた。のちに水俣病の被害を幅広く捉える司法判断が示され、新たな訴訟も起こされた。川本さんの命日に合わせて営まれる集いに顔を出し、声を上げる大切さを語っていた。

 家族を思いやっていた。だが真心を伝えるのは下手で、素っ気なかった。妻への思いだけは隠せなかった。金婚式は自分で式場を手配し、新しい着物を贈り、自分は珍しくスーツに袖を通した。参席した中村さんは「(妻を)ひたすら愛していましたね。そして水俣病と闘った」。

 亡くなる前日、病床で「ありがとうね」と長女に言った。初めて聞く、心のこもった声だったという。




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Author:gogotamu2019
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