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中村哲さん死亡 志半ばのアフガン支援(2019年12月6日配信『北海道新聞』―「社説」)

 志半ばで凶弾に倒れた無念を思わずにいられない。

 約30年にわたってアフガニスタンで人道支援に取り組んできた医師、中村哲さんが亡くなった。

 かんがい作業現場に向かう途中、乗っていた車が銃撃を受けた。

 中村さんは「あと20年(支援を)やる」と語っていたという。

 事件の詳細は不明だが、許すことのできない卑劣な行為である。

 戦争、飢餓、貧困、テロ…。世界から見捨てられたような地域で相手の文化や習慣を大切にし、支援の手を差し伸べてきた。

 「積極的平和主義」を掲げ、米国に追従する安倍政権の姿勢も厳しく批判してきた。憲法9条の重みを知り、実践した人だった。

 中村さんの志を途絶えさせてはいけない。

 1984年、パキスタン北西部でハンセン病患者の医療活動を始め、内戦で混迷するアフガンに支援先を広げた。

 2000年に襲った大干ばつが転機となった。水不足で感染症がはびこり、幼い子どもが犠牲になった。「医者は病気を治せても飢えや渇きを治せない」と聴診器の替わりに重機のレバーを握った。

 現地の人たちと一緒に1600の井戸を掘り、1万6500ヘクタールの農地をよみがえらせた。

 人々の命を救うには何が必要か。それを見極め、全力を尽くす。アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞などを受賞したのもその実績を評価されたからだ。

 一番つらかったのは08年に一緒に働いていた伊藤和也さん=当時(31)=が武装集団に拉致され、殺害された事件ではなかったか。

 中村さんは1人で現地に残り支援を続けた。それが伊藤さんの遺志を継ぐ方法と考えたのだろう。

 アフガンは大国の思惑に翻弄(ほんろう)されてきた。01年の米中枢同時テロの後、米英軍は「テロとの戦い」と称して軍事攻撃を仕掛け、タリバン政権を崩壊させた。

 だがタリバンは勢いを取り戻し、過激派組織「イスラム国」(IS)も浸透するなど、泥沼の混乱が続いている。

 中村さんは「戦争によって絶対にテロは解決できない」と一貫して武力行使に反対してきた。

 安倍政権の安全保障政策についても「いつでもリセットできる戦争ゲームのような、あり得ない議論をしている」と批判していた。

 日本がとるべき道は軍事的関与を強めることではない。紛争解決に努め、中村さんらが進めた人道支援を支えることだ。



中村哲さんの死(2019年12月6日配信『北海道新聞』―「卓上四季」)

 福岡県を流れる遠賀川流域には、「川筋気質」があるという。筋の通らないことが嫌いで弱きを助ける。戦前、北九州で港湾労働者を束ねた玉井金五郎を祖父、その義理人情に厚い川筋気質を「花と竜」に描いた作家の火野葦平を伯父に持つ

▼戦火と干ばつで荒廃したアフガニスタンで30年以上にわたり、人道支援を続けた医師の中村哲さんは穏やかな人だが、そんな故郷の気風を誇っていたようだ。作家の澤地久枝さんとの対談「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」で語っている

▼「何らかの打つ手があって、そこにそういう人がおれば、それを使いたくなるのが人情というものです」「自分の身は、針で刺されても飛び上がるけれども、相手の体は槍(やり)で突いても平気だという感覚、これがなくならない限り駄目ですね

▼現地の無医地区に診療所を整備するが、水がないために救えるはずの命が失われていく。それでも決して諦めない。水利事業や農業指導にも手を広げ、自ら重機を操作し多数の井戸と長大な用水路を完成させた

▼世界から見捨てられたような人々に、人生の大半をささげた人が何者かに銃撃され、亡くなった

▼澤地さんは、講演会で「自分になにができるだろうか」と問われ、丁寧にこたえる中村さんの姿を伝えている。「なにもできないということはなく、『なにをするか』よりも『なにをしてはならないか』である」



「100の診療所より1本の水路が必要」(2019年12月6日配信『河北新報』―「河北春秋」)

 死にそうな子を抱えた母親が診療所に来た。何日も歩き、到着した。外来の列に並んでいる間に子どもは母の胸の中で息を引き取った。2000年、干ばつに襲われたアフガニスタン。医療活動に携わった中村哲さんにとってそんな光景は珍しくなかった

▼著書『天、共に在り』(NHK出版)によると、干ばつの犠牲者の多くは幼児だった。汚水を飲み、感染症にかかって死んだ。食糧、飲料水さえあれば助かる命だった。「100の診療所より1本の水路が必要」。中村さんの持論はこうした経験から生まれた

▼独学で井戸を掘り、用水路を造った。NGO関係者が語ったように事業の大切さは理屈では分かる。それを行動に移したのが中村さんのすごさだった。大地は潤った。貧しくて兵士になった人々も農業に戻ってきた

▼何度も命の危険にさらされたが、無用な敵をつくるまいと銃は持たなかった。そんな中村さんが凶弾に倒れた。あまりにも理不尽な死。これが過激派組織が国土の約半分を影響下に置く国の現状なのだろう

▼生前、平和には戦争以上の忍耐と努力が必要だと強調した。「自然と人、人と人の和解を探る以外、われわれが生き延びる道はないだろう」。73年の生涯で大切にしたのは「信頼」の二文字。その信念は揺るぎなかった。



中村医師の死 現場主義を忘れまい(2019年12月6日配信『朝日新聞』―「社説」)

 現場に徹底してこだわり、現地の人々に寄り添う姿勢を貫いた。それなのに……。理不尽さに言葉もない。

 30年以上にわたり、アフガニスタンで復興支援に携わった中村哲(てつ)さん(73)が亡くなった。灌漑(かんがい)工事の現場に赴く途中の車が何者かに銃撃された。

 「あと20年は活動を続ける」と周囲に話していたという。その志を打ち砕いた凶行に怒りを覚える。ともに命を落としたアフガニスタン人の警備員ら5人にも、哀悼の意を表したい。

 医師である中村さんが農業支援に取り組んだのは、00年にアフガニスタンで起きた大干ばつを目にしたのがきっかけだ。薬があっても、水と食糧がなければ命を救えない。その無力感から、土木を独学した。

 心がけたのは現地の人と同じ目の高さで見て、考え、行動することだ。できるだけ地元の素材を利用し、地元のやり方で、地元の人の力を活用した。

 外国からの支援者が受け入れられる鍵は「その地の慣習や文化に偏見なく接すること」「自分の物差しを一時捨てること」と話していた。忘れてはならない言葉だ。

 中村さんが現地代表を務めるNGOぺシャワール会は、約1600本の井戸を掘り、用水路を引いて、1万6500ヘクタールの農地をよみがえらせた。東京の山手線の内側の面積の2・6倍にあたる。ふるさとに帰還した難民は推定で15万人にのぼる。

 だが、アフガニスタンの治安は依然として回復の兆しが見えない。反政府武装組織タリバーンや過激派組織「イスラム国」が根を張り、政府に打撃を与える目的で、国際援助機関やNGOを標的にし続けている。

 ぺシャワール会も、08年に伊藤和也さん(当時31)が殺害され、活動の見直しを余儀なくされた。大半の診療所を閉め、日本人メンバーは引き揚げた。それでも中村さんは現地に残り、用水路の建設を続けた。

 「現地の人々の命を守る活動をしているからこそ守ってもらえる」との信念を貫いた。それを無謀というのは当たるまい。

 人道支援においては、政府や国際機関だけでなく、NGOの役割がますます重要になっている。治安の悪い地域にこそ、最も支援を必要とする人がいる。そのことを忘れてはならない。十分な安全対策を講じたうえで、現地の声に耳を傾け、国連などと連携して活動することの意義は大きい。

 「私たちは誰も行かないところに行く」。この中村さんの言葉を胸に、ぺシャワール会は今後も活動を続けるという。

 中村さんが砂漠から変えた緑の風景が続くことを祈りたい。



中村医師の銃撃死 命尊ぶ信念引き継ぎたい(2019年12月6日配信『毎日新聞』-「社説」)

 志半ばであったはずだ。しかし、足跡はアフガニスタンの大地に深く刻み込まれている。

 混乱が続くアフガンで長年にわたり人道支援に携わってきたNGO「ペシャワール会」の医師、中村哲さんが、現地で武装集団に銃撃され亡くなった。

 並外れた信念と行動の人だった。

 パキスタンで始めた医療支援をきっかけに、アフガンに軸足を移していった。アフガンは2000年に大干ばつに見舞われ、飢えと渇きが広がった。命を救うには清潔な水と食料が必要だった。

 医療の枠を超え、井戸や農業用水路の建設に取り組んできた。掘った井戸は1600本、1万6500ヘクタールを沃野(よくや)に変えた。土木は独学だ。

 アフガンの若者が武装勢力に加わる背景には、貧困がある。干ばつと戦火で荒廃した農業の再生による貧困解消が、負の連鎖を断ち切るという確信があった。

 安倍晋三首相は「命がけでさまざまな業績を上げられた。本当にショック」と悼んだ。

 しかし、首相が14年に集団的自衛権行使を巡り、海外NGOのための自衛隊任務拡大に言及した際、中村さんは「不必要な敵を作らないことこそ内閣の責任」とクギを刺した。武力による紛争解決に異議を唱えていた。

 アフガンは治安の悪化に歯止めがかからない。01年の米同時多発テロ後、米軍とタリバンなど反政府武装勢力との戦闘が続く。

 国連によると、昨年だけでも3804人の民間人が犠牲になった。人道援助団体も攻撃対象になり、今年1~8月で27人が死亡した。

 治安悪化を理由に援助は先細る。銃撃事件を受け、さらに及び腰にならないか心配だ。両国が協力して事実関係解明に努めてほしい。

 ペシャワール会は活動を継続する方針だ。国際社会はアフガンを見捨てずに、志を引き継ぐ責任がある。

 訃報を受けてアフガンでも悲しみの声が広がっている。文化や伝統を尊重し、地域に根ざした支援で信頼を得てきたことの表れだろう。

 中村さんはかつて、人々との相互信頼が武器よりも大事だと語っていた。その思いをいま一度、かみしめたい。



中村医師の死 アフガン復興の意志繋げ(2019年12月6日配信『産経新聞』-「主張」)

 治安の劣悪なアフガニスタンで長年、復興支援に携わってきた日本人医師、中村哲さんが現地で銃撃され、死亡した。

 用水施設の工事現場に向かう中村さんの車が襲われた。運転手や警護のアフガン人5人も犠牲になった。計画的で残忍なテロであり、絶対に許すことはできない。

 中村さんは医師の枠にとどまらず、自ら必要と判断して灌漑(かんがい)事業を進め、現地でも高い評価を受けた。アフガンに生涯を捧(ささ)げたといえる。哀悼の意を表したい。

 同時に痛感させられるのは、アフガンの国造りのあまりの険しさだ。それでも成し遂げるという決意を新たにする必要がある。

 中村さんは1984年、パキスタンのアフガン国境で医療活動を始め、流入する難民らの診療にもあたった。91年にはアフガンに診療所を開設した。

 2000年に干魃(かんばつ)が深刻化し、水不足で子供たちの栄養失調や感染症が急増すると、何より清潔な水が重要とみて、井戸を掘り、用水路を造る作業を始めた。

 この柔軟な発想と果敢な行動力は、長年アフガンの住民と接し、土地や気候をつぶさに見てきたたまものだろう。灌漑事業は現地の雇用増にもつながったという。

 日本は政府、民間の双方で世界各地でさまざまな支援を行っている。中村さんの経験を今後の国際貢献に生かさねばならない。

 国際社会にとって、アフガンの国造りが重要なのは、このまま放置すれば、再び「テロの温床」と化す危険があるからだ。

 アフガンは01年の米中枢同時テロの犯行拠点だった。同年のアフガン戦争後、治安はおもに、米軍など外国部隊が担ってきたが、状況は悪化する傾向にある。

 いまのアフガンにはなお、米軍など外国部隊の存在が不可欠である。そうでなくなるには、アフガンの政府、軍が自立し、復興が成り、住民が極度の貧困に悩まされなくなる必要がある。

 そのためにも、中村さんのような人々の支援活動は貴重だ。テロで支援が後退することがあってはならない。中村さんの意志を繋(つな)ぐべきである。彼らの安全確保に一層力を入れてもらいたい。

 アフガンのガニ大統領は関係当局に銃撃犯の逮捕を命じた。悲劇を繰り返さないためにも日本政府はアフガン政府と協力して真相を究明しなければならない。



「最大の英雄」(2019年12月6日配信『産経新聞』-「産経抄」)

アフガニスタン北東部に連なるヒンズークシ山脈は、氷河時代の遺物といわれるアゲハチョウの一種が生息することで知られる。10歳のころから、昆虫に夢中になっていた中村哲さんにとって、一度は訪れてみたい場所だった。

▼昭和53(1978)年、すでに医師になっていた中村さんは、地元福岡の山岳会の遠征隊に加わり、ようやく夢をかなえた。現地に親しみを抱いた中村さんは6年後、ハンセン病治療のために、パキスタン・ペシャワルの病院に赴任する。

▼当時、国境の向こう側のアフガンでは、旧ソ連の軍事介入によって、混乱の最中にあった。中村さんは大挙して押し寄せる難民の診療にもあたった。日本からの寄付金により、アフガン各地にも診療所をつくっていく。

▼2000年、アフガンは新たな悲劇に見舞われる。未曽有の干魃(かんばつ)により、WHO(世界保健機関)によれば、400万人が飢餓にさらされていた。診療所には、下痢で脱水状態になった幼児を抱いた若い母親が押し寄せる。治療どころではない。清潔な飲料水を確保するために始めたのが、井戸掘りである。

▼やがて荒れ果てた田畑を蘇(よみがえ)らせるために、灌漑(かんがい)用水路の建設に取りかかる。日本の伝統的な技術を独学で学び、自ら重機も運転した。70歳を超えても、現地で指揮をとる中村さんを、アフガン政府は「最大の英雄」と称(たた)えた。武装勢力による卑劣な銃撃がなければ、英雄の物語がまだまだ続くはずだった。

▼偉業の原動力はなんだったのか。「弱い者を守れ」。中村さんは母方の祖母から受けた説教が、自分の倫理観の根底にある、と著書に記している。伯父にあたる作家、火野葦平の代表作『花と龍』のモデルにもなった。剛毅(ごうき)な女性だったらしい。



生き方は重なる(2019年12月6日配信『東京新聞』-「筆洗」)

 掘っていた井戸で事故が起きた。地元のアフガニスタン人作業員が死亡している。非政府組織代表の中村哲さんが作業員の村を訪ねると、高齢の父親は悲しみを押し殺して言ったという

▼「こんなところに自ら入って助けてくれる外国人はいませんでした。息子はあなたたちと共に働き、村を救う仕事で死んだのですから、本望です…泉が涸(か)れ果て、小川の水も尽きたとき…あなたたちが現れたのです」(著書『医者井戸を掘る』)

▼生きる希望が尽きそうになっていた人たちの前に現れ、30年以上の長きにわたって共に汗を流してきた。遠い国で本望という言葉を使って感謝の言葉を贈られる日本人は多くないだろう。アフガニスタンでも、中村さんの突然の死に悲しみが広がっている

▼「生きるとは旅である」と書いている。昆虫が好きで山を愛した。登山隊に参加したのが、かの地との出会いだった。数年後、医師として難民救援などにかかわることになる。やがて活動を「天命」と知ったという

▼作家火野葦平は伯父。葦平が『花と龍』で主人公にした玉井金五郎は祖父にあたる。四国から流れて来た福岡・若松で零細な港湾労働者たちのために、命をはったと伝えられる人物だ。生き方は重なる

▼凶弾で旅は突然終わった。治安が悪化しても人々を見捨てず、見下すこともなかった。その生き方は忘れることができない。



中村哲さん死去 尊き遺志を受け止めたい(2019年12月6日配信『信濃毎日新聞』―「社説」)

 砂漠地帯に張り巡らせた用水路は、現地の言葉で「真珠」と名付けられた。

 アフガニスタン東部でかんがい事業や医療活動に取り組む「ペシャワール会」の中村哲さんが銃撃を受け、亡くなった。

 言語に堪能で、民族服をまとって地元料理を食べ、イスラムの伝統を重んじて地域社会に溶け込んだ。非政府組織(NGO)による草の根活動のあるべき姿を身をもって示した人だった。

 アフガン和平には戦争ではなく貧困の解決が不可欠だ―。中村さんが遺した言葉を、いま一度かみしめたい。

 1983年、医師の中村さんは地元福岡市でペシャワール会を立ち上げ、パキスタンで医療支援を開始した。91年に難民が流入してくるアフガンに診療所を設け、山岳地帯にも活動を広げた。

 2000年に大干ばつに見舞われたのを機に井戸掘りを始める。耕作放棄は難民を生む要因でもあった。土木や河川の技術を独学し江戸期の堰(せき)も参考にして用水路に水を通し、干上がった広大な土地をよみがえらせている。

 11年前、同じペシャワール会の伊藤和也さんが武装集団に拉致され死亡した。日本人スタッフ全員を帰国させた後も中村さんはとどまり、アフガン人スタッフと用水路事業を完成させた。

 統計によると、世界各地で18年に武装集団に襲われた国連、赤十字、NGOの職員らは405人で131人が死亡している。アフガンでも襲撃や誘拐が絶えない。

 79年のソ連の侵攻以降、大国と武装組織の思惑が交錯する紛争が繰り返されており、アフガンの治安回復は遠い。中でも東部は最近、過激派組織イスラム国(IS)の拠点と化していた。

 中村さんは護衛を伴い、宿舎と作業場の往復に限っていた移動経路も毎回変え、注意していた。それでも防げなかった。

 中村さんが伊藤さんへの弔辞で述べていた。「伊藤君を殺したのはアフガニスタン人ではありません。アフガンを蝕(むしば)む暴力です。戦争と暴力主義は無知と臆病から生まれ、解決になりません」

 菅義偉官房長官は「卑劣なテロは許されるものではない」と強く非難するが、無秩序をもたらしたのは米ロを中心とする国際社会との見方もできる。政府がなすべきは根本の問題に目を向け、外交努力を尽くすことだろう。

 平和構築が豊かさを生む、と伝え続けるNGOスタッフの犠牲をこれ以上増やしてはならない。



「井戸を掘った人」(2019年12月6日配信『新潟日報』―「日報抄」)

「井戸を掘った人」という言い方がある。恩を胸に刻むことを意味する中国のことわざ「水を飲む時には井戸を掘った人のことを忘れない」から引き、物事を切り開いた人という意味で使われることが多いようだ

▼アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師の中村哲さんは、戦禍で荒れ果てたこの国に対する支援活動を切り開いた先駆者だった。実際に1600本もの井戸を掘り作物の実りをもたらした

▼貧しさゆえに人は健康を損ねていく。貧しさゆえに人は暴力に走る。中村さんは、命を救うには貧困の解決が欠かせないとして、支援の軸足を医療から貧困対策に移した。治安維持やテロ対策を理由とした外国の軍事介入には一貫して否定的だった

▼テロリストの拠点を狙った外国軍の空爆で一般人も命や財産を奪われる。外国軍を標的にしたテロに一般人が巻き込まれる。それらが新たな憎悪を生み出す。「外国軍の存在が治安をますます悪化させる」と憂えていた

▼外国軍と距離を置き、現地の人々の信頼を得ることが身を守ることになるという信念があった。それだけに、こんな形で自らの命が絶たれるとは、どれほど無念だろう。歯止めが掛からない治安の悪化を招いたものは何だったのか

▼「危険な場所になぜ行くのか」といった声が上がる日本社会について「ほかの国の人の命は考え切れない、非国際性というのを感じます」と話し、黙々と井戸を掘り続けた。失ってはならない人を、あってはならない形で亡くしてしまった。



中村さんの訴え 民間支援の重要さ体現(2019年12月6日配信『京都新聞』―「社説」)

 「平和に武器は要らない」。民間の人道支援を貫いた足跡の大きさを改めて思う。

 アフガニスタン東部のジャララバードで、福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)が、武装集団に銃撃されて亡くなった。

 中村さんは35年にわたり、紛争が続くアフガンやパキスタンの国境付近で難民や貧しい人々に寄り添い、命と暮らしを助けてきた。

 突然の悲劇に現地をはじめ世界の人々が衝撃を受け、悼んでいる。失われた存在の大きさに深い悲しみと憤りを禁じ得ない。

 同時に、その身をもって訴えた紛争地域の人々の現実により目を向けねばなるまい。

 中村さんの出色の活動は、医師としての医療支援にとどまらず、命を脅かす根源にある貧困問題の解決へ行動したことである。

 清潔な水と食料があれば、病を防いで、若者らが飢えから武装勢力に加わるのを避けられるとの信念からだ。住民らと共に掘った井戸は計1600本。荒廃した土地に用水路を引いて農地1万6500ヘクタールを復活させ、65万人の生活を支えた。

 紛争下で長期間、着実に復興支援を積み重ねられたのは、現地の服装や食事、イスラム教を尊重した生活習慣で住民に溶け込み、信頼を紡いだからだ。大国の思惑が絡む軍隊や政府機関の支援でなく、民間こそなし得る役割の重要さを体現してきたといえよう。

 それでも危険は隣り合わせだった。2008年に同会の伊藤和也さん=当時(31)=が武装グループに拉致、殺害された。このため中村さんは単身で活動を続けつつ、護衛を付けて細心の注意を払っていたが、防ぎきれなかった。

 武装集団は待ち伏せして車を襲い、全員の死亡を確認していたとされ、中村さんが標的だった可能性がある。国内の混乱を内外に印象づけ、自らの勢力を誇示する狙いではとの観測が出ている。

 アフガンは米軍の対テロ作戦後の混迷が続き、反政府勢力のテロや戦闘で治安悪化に歯止めがかからなくなっている。

 国連によると、昨年に巻き込まれた民間人の死者は約3800人と過去10年で最悪だった。相次ぐ犠牲者に多くの援助関係者が撤退し、アフガンへの国際援助額も大きく減少する傾向にある。

 中村さんが半生をささげた紛争、貧困に苦しむ人々の平穏はいまだ遠い。世界の支援を絶やさず、広げていくのが託された宿題だ。



中村医師、銃撃受け死亡 アフガン復興、思い半ば(2019年12月6日配信『中国新聞』―「社説」)

 その命を奪った理不尽な凶行に怒りと悔しさを禁じ得ない。

 戦乱と干ばつで荒廃したアフガニスタンで長年、人道支援に取り組んできた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師が現地で銃撃され、死亡した。

 あれほど現地住民から信頼され、希望と勇気を与え続けてきた日本人はいない。志半ばの死を深く悼む。

 医師として活動を続ける中で「水とパン」の不足が病根だと見抜いたのは、徹底した現場主義を実践していたからだろう。井戸を掘って用水路を引き、農村の再生に手を尽くしてきた。

 隣り合わせの危険を顧みず、貧しい人々に寄り添う活動は、現地でも高く評価されていた。アフガンの復興にとっても損失は大きかろう。

 車でかんがい工事の作業現場に向かう途中、武装した男らに襲われ、中村さんを含む計6人が殺害された。現場は東部のナンガルハル州で、イスラム過激派組織などが活動し、治安が悪化している地域だった。

 誰がどういった狙いで襲ったのか詳細は定かではない。安全に配慮し護衛の車も同行していたというが、「丸腰」で活動に当たっていた中村さんを狙ったとすれば、卑劣で許すことのできない蛮行だ。

 中村さんは1984年、パキスタン北西部のペシャワルでハンセン病患者らの治療活動を始めた。無医地区に診療所を相次いで開設し、スタッフを養成しながら医療体制を整えた。

 転機は2000年の大干ばつだった。栄養失調の子どもたちが本来は治せるはずの感染症で次々と命を落としていった。

 「飢えは薬では治せない」と医療の限界を実感した。「100の診療所より1本の用水路が必要」を合言葉に、自ら重機を運転して井戸を掘って用水路建設に乗り出した。

 目の前で倒れている人を見たら、放っておけないという気持ちに後押しされることはあろう。ただ言葉では理解できても、医療の枠を超え、行動に踏み出すのは難しい。

 「誰も行かないところに行き、誰もやりたがらないことをやる」。援助する側から見るのではなく、常に住民の視点で本当のニーズを探り、支援を続ける現地主義に徹した。それを30年以上もひたすら続けてきたことに敬意を表する。

 現地の人との信頼こそが安全保障という考えを実践した。国会参考人などさまざまな立場でも、軍事的な手段は市民レベルの活動の危険を高めると訴えてきた。

 広島、長崎に原爆が投下されながら、その後は「戦争をしない平和国家」として復興を果たした日本に対し、アフガンの人々は親密さと信頼感を抱いているとも繰り返していた。

 だが01年9月11日の米中枢同時テロを経て、タリバン政権が崩壊すると、日本のアフガン政策は「復興支援」と「国際テロ対策協力」の2本立てとなった。対日感情も変わってきたと語っていた。「前は日の丸をつけていれば、武装集団に襲われることはなかったのに、9・11以降は逆に危なくなった」

 安全保障や平和構築を市民レベルで語り続けた中村さんの言葉をいま一度かみしめなければならない。



中村哲医師死亡/平和貢献の信念貫いた(2019年12月6日配信『山陰中央新報』―「論説」)

 アフガニスタンで医療や農業の支援活動を続けてきた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表、中村哲医師が銃撃され、死亡した。市民による丸腰の支援こそが平和に貢献するという信念を貫き、危険と隣り合わせのアフガン支援に大きな足跡を残した。

 その命を奪った理不尽な事件に憤りと悔しさを禁じ得ない。長年の経験を踏まえ、軍事行動でなく「信頼が安全保障」と訴えた中村さんの思いを、今こそ胸に刻みたい。

 誰がどういった狙いで銃撃したのか詳細は明らかでないが、中村さんは活動拠点を置く東部ナンガルハル州で、宿舎からかんがい作業の現場に向かう途中、乗っていた車が武装集団の銃撃を受け、運転手らとともに犠牲になったという。反政府武装勢力タリバンに加え、過激派組織「イスラム国」(IS)も活動する治安の悪い地域だ。

 中村さんは1984年にパキスタン北西部ペシャワルで医療活動を始め、内戦下のアフガンから国境を越えて来る難民を治療。91年にアフガンのナンガルハル州に診療所を開いた。2000年の干ばつで感染症が広がると井戸掘りや用水路建設も始めた。アフガン政府から18年に勲章を授与され、今年10月には名誉市民権を与えられた。アジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」も受賞した。

 アフガンでは01年9月11日の米中枢同時テロ後に、米軍などの攻撃でタリバン政権が崩壊したが、混迷が続く。今年9月に大統領選が実施されたが、開票作業を巡る対立などで暫定結果の発表さえできていない。

 和平の実現に意欲を燃やすトランプ米大統領は11月に就任後初めてアフガンを予告なしに訪問し、タリバンとの和平協議再開を明らかにしたが、協議が順調に進むか予断を許さない上、和平をにらむ各勢力の動き次第で、情勢が流動化する可能性もある。

 医療にとどまらず、紛争の背景にある水不足や貧困をなくそうとした中村さんの視野の広さと行動力は特筆に値する。干ばつ対策では「平和を取り戻すためには水が必要」と土木工学を独学し、機械を使わず人力による工法を試みた。貧困層の子供のためにマドラサ(イスラム神学校)の建設に乗り出した。

 そうした貴重な経験を踏まえた著作は多くの読者を得ており、農業農村工学会(旧農業土木学会)の学会賞や、城山三郎賞などに選ばれた著書もある。

 危険地帯で支援団体が身の安全をどう確保するかは難しい問題だ。活動を継続するか撤退するか。銃を持った警備を付けるか。判断が分かれることも少なくない。

 ペシャワール会では08年、用水路建設に携わっていた伊藤和也さんが武装勢力に銃撃され、死亡した。それ以降、日本人の現地入りは制限してきたが、中村さんは現場に立ち続けたという。

 中村さんは国会参考人などの場で、軍事的手段は市民の活動の危険をむしろ高めると説いた。「前は、日本は国連以上に信頼されていた。日本の旗をつけていれば武装集団に襲われることはなかった。9.11以降は日の丸を揚げていると逆に危なくなった」。安全保障や平和構築を、市民レベルで語り続けた中村さんの言葉をかみしめたい。



中村哲さん(2019年12月6日配信『愛媛新聞』―「地軸」)

 アフガニスタンは、ヒマラヤ山脈の西側に位置する。山岳地帯で、さまざまな民族が谷ごとに暮らしており、日本の戦国時代に似ている―。3年前に東京であった医師の中村哲さんの講演に引き込まれた

▲ライフワークのアフガン支援は、隣国パキスタンでハンセン病患者の医療活動に携わったのをきっかけに始まった。内戦により難民が増える中、支援側の都合で活動を断ってはならないとの強い思いがあった

▲2000年の大干ばつでは、水と食糧の不足で「次々と村が消えていく」現実を目の当たりにした。生命線である飲料水を確保するため、各地に井戸を掘る活動に奔走していく

▲そんな中、米中枢同時テロの報復として始まったアフガン攻撃には耳を疑ったという。「今アフガンに必要なのはパンと水で、飢えて死にかけている人の頭上に爆弾を振りまくことではない」。危険を承知で命がけの食糧配給を続けた

▲武装勢力の拡大の背景には「貧困を引き起こす干ばつがある」との思いから、農地再生に向けたかんがい事業に力を注ぐ。現地の住民が建設や維持を担えるよう、自然を生かした日本の近世の工法を取り入れた。渇いた土地に緑がよみがえり、村も復活していった

▲アフガンに深く根を下ろした中村さんが銃弾に倒れた。「向こうでしか生きられない人間になってしまった」。はにかんだ表情がよみがえる。あまりにも大きな喪失が、受け止めきれない。



【中村哲さんの死】支援の信念引き継ぎたい(2019年12月6日配信『高知新聞』―「社説」)

 アフガニスタン東部で長年、人道支援を続けてきた非政府組織「ペシャワール会」の現地代表で医師の中村哲さんが、武装した男らに銃撃され死亡した。

 事件が起きたナンガルハル州では反政府武装勢力タリバンのほか、弱体化が指摘される過激派組織「イスラム国」(IS)も活動している。犯行声明は確認されていない。

 アフガン人の生活向上に尽くしてきた中村さんは、現地でも信頼を集めていた。突然の凶行に「なぜ」の思いが募る。銃撃犯の拘束と事実関係の解明が急がれる。

 中村さんの支援活動を貫いた「アフガン和平には戦争ではなく、貧困解決が不可欠だ」という信念には学ぶべきことが多い。

 中村さんが隣国パキスタンで医療活動を始めたのは1984年だ。内戦で混迷するアフガンへ支援先を広げる中で、2000年にアフガンで大干ばつが発生し、多くの住民が難民化した。

 水不足で感染症がはびこり、幼児の犠牲者も続出した。これをきっかけに井戸を掘り始めた中村さんらは2003年に用水路建設にも着手。高価な機械がなくても人力でできる工法を試行錯誤した。

 医師でありながら、河川工学を一から学んだ熱意と行動力には敬服するほかない。これまでに掘った井戸は1600本に上る。かんがい事業は1万6500ヘクタールの農地を潤わせたという。

 「ここでは自然の水さえあれば、最低限の生活が保障される」「農民の営みが回復すれば、アフガンは決して貧しい国ではない」。中村さんはかつて本紙などへの寄稿にそう記している。

 「丸腰の支援」で、人々が武器を捨て、平穏な暮らしを営めるようにする。武力によらず、平和と自立を促す国際貢献、人道支援のやり方を実践した足跡は意義深い。

 一方で、紛争地での支援の難しさにも思いが至る。アフガンでは2008年にもペシャワール会の日本人男性スタッフが殺害されている。

 安倍政権が2015年に成立させた安全保障関連法に関し、中村さんは集団的自衛権の行使容認を憂慮する発言をしている。

 日本は民生支援を続けてきた姿勢がアフガンの人々にも評価されてきた。欧米と違って軍事行動に踏み込まない平和貢献国家だとして国連以上に信頼されていたという。

 「集団的自衛権の行使は、『侵略者』の一味と疑われる可能性がある。信頼が一度失われると元に戻らない」。紛争地域に長年身を置いた中村さんの言葉は重い。

 理不尽な凶行の背景はまだ分からない。ただ、安倍晋三首相が繰り返す「積極的平和主義」に対する米国以外の視線も、立ち止まって考えてみる必要がありはしないか。

 紛争地にあって信頼を得てきた中村さんの死は衝撃が大きい。だが、人々の営みに目を向ける人道支援の灯を絶やしてはなるまい。 



井戸を掘る医師(2019年12月6日配信『高知新聞』―「小社会」)

 餓死というのは空腹で力尽きて死ぬのではない。衰弱して抵抗力が落ち、飲んではいけない泥水を我慢しきれずに飲んで下痢が止まらず死んでしまう。それは主に体力のない子どもたちだった…。

 アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師、中村哲さんが著書に書いている。飢えや渇きは薬では治せない。中村さんは多くの井戸を掘り、用水路を引いて不毛の地を緑の農地に変えた。アフガンの人が清潔な水と十分な食料を得られるようにするために。

 用水路の護岸には高知県でもなじみ深い、昔ながらの「蛇籠(じゃかご)」を使う。鉄線で編んだ籠に石を詰めたもの。これだと鉄線が切れて崩れても、そこだけ積み直せばいい。地元の人でも補修できるように、との配慮からである。

 現地の人による、現地の人のための活動に徹した中村さん。「井戸を掘る医師」として、日本の国際人道支援の象徴のような人だった。なぜ標的にされなければならなかったのか。

 2001年から始まった米国の「対テロ戦争」以降、銃火が絶えないアフガン。武装勢力の存在は脅威だが、中村さんたちは武器を持たず「丸腰」で人道支援を行ってきた。「現地住民の信頼こそが最大の安全保障」との信念からだ。

 中村さんの死で「信頼の安全保障」は揺らぐのか。そうではあるまい。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」。著書のタイトルが中村さんの思いを代弁しているようだ。



「自衛隊派遣は有害無益」(2019年12月6日配信『徳島新聞』―「鳴潮」)

「自衛隊派遣は有害無益」。その言葉に議場は騒然となった。自民党議員は色をなして取り消しを求めたが、構わず「憲法の枠内とかいっても、現地はジャパニーズアーミーが米軍に協力したとしか見ない。十数年かけて築いた信頼が崩れてしまう」と続けた

 米同時多発テロの翌月、自衛隊の海外派遣を審議する衆院特別委員会に参考人として呼ばれ、持論をぶった。アフガニスタンで銃撃され亡くなった医師の中村哲さんである

 1984年に、アフガンと国境を接するパキスタンの都市で活動を始めた。両国の山岳住民や難民の診療を続ける中、干ばつによるアフガンの砂漠化を目の当たりにした。栄養失調などで子どもが次々と死んでいく

 水さえあれば多くの命が救われ、農業ができる―。その思いが、医療から井戸掘り、さらに用水路建設へと活動を広げた。土木技術を独学。住民でも容易に補修できるよう、日本の古い工法の知恵も借りた

 1600本の井戸を掘り、長大な用水路を引いた。乾いた大地が緑の農地になって穀物が収穫されると、難民キャンプや避難先から村人が帰ってきた 危険な地域にあっても、「現地の人々の望むことを一緒に実現していく、そのことが私を守る」と動じない。「信頼が安全保障」を体現してきたのに。悲報にやりきれない思いがこみ上げる。



理不尽(2019年12月6日配信『熊本日日新聞』―「新生面」

 理不尽とは、まさにこのことではないか。長年アフガニスタンで医療支援やかんがい事業に携わり、住民の生活向上に力を尽くしてきた医師、中村哲さんが現地で凶弾に倒れた。その無念はいかばかりか

▼中村さんの祖父玉井金五郞は、かつて北九州で港湾労働者を束ねていた。長男で中村さんの伯父に当たる作家の火野葦平は、金五郞をモデルに小説『花と龍』を書いた。義理人情に厚く、ひたむきに信念を貫く金五郞の姿は中村さんと重なる

▼1984年、パキスタン北西部ペシャワルでハンセン病患者の診療を始めた。当時の病棟は患者2400人に対して病床数16。ねじれたピンセット数本と、耳にはめるとけがをする聴診器1本しかなく、まともなガーゼ消毒もできなかった、と著書『天、共に在り』(NHK出版)にある

▼その後、内戦の混乱が続くアフガンに拠点を移す。2000年夏に現地は大干ばつに襲われ、「一木一草生えない沙漠[さばく]」と化した。栄養失調と脱水で子どもが相次いで倒れ、赤痢で死亡する住民が後を絶たない

▼飢えや渇きを薬で治すことはできない、と井戸を掘り用水路の建設を始める。「100の診療所より1本の用水路」と唱え、帰国した際は菊池川や球磨川など各地の水利施設を見て回った。その努力が砂漠を緑の大地に変えた

▼「信頼」は一朝にして築かれるものではない、と著書にある。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが人の心に触れると。その言葉通りに生きた人だった。



「100の診療所より1本の用水路」(2019年12月6日配信『南日本新聞』―「天風録」)

同じ場所を写した3枚の写真がある。灰褐色の砂漠に翌年用水路が通り、その3年後は防風林と畑の緑が広がる。中村哲さんの著書「アフガン・緑の大地計画」は、長年の支援活動の成果を伝えている。

 非政府組織「ペシャワール会」の現地代表で活動を引っ張ってきた中村さんが、銃撃され亡くなった。市民による丸腰の支援こそが平和に貢献するという信念を貫いてきた人だった。突然の悲報に言葉もない。

 1984年、パキスタン北西部で医療活動を始めた。内戦を逃れて国境を越えてくる難民の治療を続けるうち関心は隣国のアフガニスタンに向かった。

 2000年の大干ばつで住民が苦しむ姿に無力感を覚えた。それ以来、「100の診療所より1本の用水路」と土木工学を独学し、井戸掘りや用水路造り、農業をボランティアの若者や住民と進めた。

 ペシャワール会は08年にも武装勢力に襲われた日本人スタッフを失っている。長年活動を支えてきた広報担当の福元満治さん(鹿児島市出身)は、再び不条理な暴力で仲間の命を奪われ、「あり得ないことだ」と憤り、無念を隠さない。

 中村さんは冒頭の著書で自らの活動を「水が善人・悪人を区別しないように、地域の誰とでも協力し、人々が生きることを保証する仕事」と表現している。広がる緑の大地とともに、その志も住民の心にしっかりと根を張っていると信じる。



中村哲さん銃撃死 非暴力の実践継承したい(2019年12月6日配信『琉球新報』-「社説」)

 アフガニスタンの復興支援に取り組んできた非政府組織「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さんが、現地で武装した集団に銃撃され、亡くなった。誰よりも非暴力を貫き、アフガンの平和構築に尽くしていただけに、志半ばで凶弾に倒れたことは無念でならない。

 中村さんは戦乱や貧困に苦しむアフガニスタンの人々のため、危険を覚悟で長年にわたり紛争地に根を張ってきた。「誰も行かないところに行く、他人のやりたがらないことをやる」という信念で、医療活動にとどまらず井戸を掘り、砂漠に緑を取り戻すため農業用水路を開いた。

 アフガンの自立を手助けし、人々が貧しさから抜け出して武器を捨て、平和な営みが訪れることを信じた。国家や民族、宗教に関わりなく罪のない人たちに手を差し伸べる人道主義に基づいた実践は、日本人が世界に誇る民生支援の姿を示してくれた。

 沖縄が目指す平和の在り方でも模範となった。2002年に県が創設した沖縄平和賞の最初の受賞者がペシャワール会だった。沖縄戦の犠牲となり、戦後も広大な米軍基地が存在する沖縄の苦悩や矛盾に中村さんは「全アジア世界の縮図」と思いを寄せた。沖縄の人々もまた、「非暴力と無私の奉仕」に共鳴した。

 授賞式で中村さんは「私たちの活動を非暴力による平和の貢献として沖縄県民が認めてくれたことは特別の意味がある」と喜びをかみしめた。創設の意義にふさわしい受賞者であり、その活動を顕彰できたことは県民の誇りだ。

 今年10月にアフガン政府から「最大の英雄」として名誉市民権が授与されたばかりだった。現地に尽くし、尊敬を集めた中村さんが、なぜ襲撃の対象となったのか。不条理な暴力に怒りを覚える。

 それと同時に、米国の武力行使に追随する日本政府の姿勢が、海外の紛争地で活動する日本人の安全を脅かしていることを危惧する。

 2001年の米中枢同時テロへの報復で米国はタリバンが拠点とするアフガンに空爆を開始し、日本も支持を表明した。米軍がイラクに侵攻した翌04年には、南部サマワに陸上自衛隊を派遣した。

 集団的自衛権の行使を可能にした15年の安全保障関連法の成立を巡って、中村さんは「ほかの国と違い、日本は戦争をしないと信じられてきたから、われわれは守られ、活動を続けることができた」と警鐘を鳴らしていた。

 武器輸出の容認や9条改憲の動きが強まる中で、日本は中立だと諸外国に主張することが難しくなっている。軍事的な対米追従の流れに、辺野古の新基地建設もある。

 中村さんが遺(のこ)した非暴力の実践を受け継ぐとともに、憲法が掲げる平和主義の重みをかみしめたい。ペシャワール会の活動に敬意を表しつつ、多くの県民と共に中村さんのご冥福を心からお祈りする。



[中村哲さん銃撃死]現場で貫いた平和貢献(2019年12月6日配信『沖縄タイムス』-「社説」)

 アフガニスタンで長年、人道支援に取り組んできたNGO「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)が銃撃され死亡した。

 危険と隣り合わせの地で、医療分野にとどまらず、現地の人が生きるために必要な水源確保やかんがい事業を手掛けるなど、多大な足跡を残した。こうした形で命が奪われたことは本当に残念である。心から哀悼の意を表したい。

 中村さんは1984年、パキスタン北西部のペシャワルに赴き、ハンセン病の治療に当たった。同時にアフガン難民の診療の必要性を知り、アフガン国内に活動拠点を移していった。

 2000年にアフガンを襲った大干ばつをきっかけに、飲料水確保のための井戸を掘る活動を始めた。「飢えや渇きは薬では治せない」として、人々が食糧を確保するため用水路の建設も手掛けた。

 常に弱者に寄り添い、人々の暮らしを見つめ、その土地にあった支援とは何かを問い続けた。

 用水路の建設では、住民が管理・維持できるよう地元の石工技術、素材を活用した。一過性ではない、人々の「生きる」を支えることに徹したのだ。

 現場主義を貫いた中村さんが、日本の国際貢献の在り方に疑問を投げ掛ける場面もあった。

 新テロ特措法改正を巡る国会の参考人招致では、日本政府のアフガンへの自衛隊派遣の検討を批判。「治安が悪化する」「軍事活動では何も解決しない」などと武力によらない平和を訴えた。

■    ■

 ペシャワール会は02年、沖縄県が創設した第1回「沖縄平和賞」を受賞した。平和と人間の安全保障に貢献し、命の救済と基本的権利の確保のために尽くすことにより、普遍的な平和への意識を喚起することに成功した-として活動が評価された。

 中村さんは受賞あいさつで「平和を唱えることさえ暴力的制裁を受けるという厳しい現地の状況の中で、その奪われた平和の声を、基地の島沖縄の人々が代弁するのは現地にいる日本人としては非常に名誉」と述べている。

 空爆などで幼い命が失われていくアフガンの状況と、米軍基地を背負う沖縄の不条理さを重ねた言葉である。

 アフガン政府から18年に同国の保健や農業分野で貢献したとして勲章を授与され、ことし10月には名誉市民権を与えられたばかりだった。

 中村さんの支援の功績が認められた結果である。

■    ■

 アフガニスタンでは01年の米同時多発テロ発生後、米軍などによる攻撃でタリバン政権が崩壊したが、反政府武装勢力の攻撃など混迷は続いている。和平実現には程遠い現状にある。

 そんな危険な状況の中でも支援の現場に立ち続けたのは、「平和の達成には軍事力ではなく、地域に溶け込んだ国際貢献だ」という強い信念からだ。

 非暴力を貫き、常に弱い者の側に立ち、真の平和貢献を体現した中村さんの遺志を引き継ぐことが私たちの役割である。



「有害無益」(2019年12月6日配信『しんぶん赤旗』-「潮流」)

 世界でもっとも貧しい国で、自分の持っているものをすべて注いでその国の人たちのために尽くしている―。井上ひさしさんは、よく講演で尊敬の念をこめてこの人物を紹介していました

▼ハンセン病をはじめアフガニスタンで献身的な医療活動をつづけてきた中村哲さん。支援地に向かう途中で銃撃され、現地では無分別な犯行への怒りと“真の友人”を失った悲しみがひろがっています

▼そこの実情を知り、住民がほんとうに困っていることに手を差し伸べるのが支援。丸腰のボランティアの信念は医師の枠をこえました。水不足によって多くの命が失われている現実を前に、白衣を脱ぎ、メスを重機のレバーに代えて大地の医者に

▼1600もの井戸を掘り、全長30キロ近い用水路をひらき、不毛の地は広大な農地となって数十万の人びとに恵みをもたらしました。命を奪う地雷を命をつなぐ掘削に利用して。「ゼンダバード!(万歳)」の歓呼は各地であふれました

▼「有害無益」。2001年、同時多発テロの報復として米国がアフガンに爆弾を落としはじめたとき。国会に呼ばれた中村さんは、自衛隊の派遣に反対。十数年かけて築いてきた日本への信頼が一挙に崩れ去ってしまうと訴えました

▼大好きな昆虫にかこまれ、ファーブルのような暮らしを夢見ていた中村さん。生きるものすべてに愛情を注いできた気骨の医師は世に問いかけます。「私たちが持たなくてもよいものは何か、そして人として最後まで失ってはならぬものは何か」









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