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吉行淳之介さん、福祉のどちらにも「一途」 宮城まり子さん「一番愛しているのは...」(2020年3月24日配信『JーCASTニュース』)

2020年3月21日に亡くなった宮城まり子さんは、公私ともに「一途の人」だった。

社会福祉の事業家としては、「ねむの木学園」づくりに邁進し、恋の相手としてはただ一人、作家の吉行淳之介さんに惚れ尽くした。

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1950年代半ばの宮城さん、吉行さん

生まれて初めて恋をした相手に「奥さんがいる」

宮城さんが、「第三の新人」として注目されていた吉行淳之介さんと知り合ったのは50年代末。女性誌が企画した鼎談がきっかけだった。中原中也、梶井基次郎らを好む文学少女だった宮城さんは、すでに吉行さんの『驟雨』『原色の街』などを読んでいた。知り合って、好きになってから、「奥さんがいる」ことを知った。

宮城さんの演技面の指南役だった演出家の菊田一夫さんによれば、「まり子は昔のいじらしい女学生のような女の子」だったという。

「三十いくつにもなって、生まれて初めて恋をして、その相手が奥さんがいる男性で、そのために身もよじれるほどの切ない思いを味わっているとは、何という馬鹿なことをやる奴だ、と私は思ったが、それを叱る資格は私にもない」(菊田一夫著『芝居づくり四十年』)

宮城さんはいったん別れを決意し、ミュージカルの勉強のため欧米に向かう。パリにいたとき、父から国際電話があった。弟の作曲家、八郎さんが日本で交通事故死したというのだ。「二人でミュージカルを」と誓い、売れない時代から長年苦労を共にしてきた。編曲家として宮城さんの「ヒット曲」を支え、宮城さんにミュージカルの本場への留学を強くすすめてくれた八郎さん。まだ29歳だった。毎日、泣きはらしているときに吉行さんから手紙が届いた。「帰っておいで」。

愛は「マシュマロ」のような

「ねむの木」を始めるにあたって、吉行さんと、「3つの約束」をしたという。「愚痴を言わない」「お金がないと言わない」「やめない」。

その約束を守り、宮城さんは「ねむの木」にのめり込む。歌手、女優をほぼ休業して専念、障害児施設のほか、小・中・高・専門部・幼稚部の特別支援学校を持ち、美術館、工房などもある職員約100人の複合的な福祉施設へと大きく育てた。

宮城さんは1994年の吉行さんが亡くなる1か月前、特別に「ねむの木」から休みをもらう。東京の聖路加病院に泊まり込み、日野原重明医師らとともに最期を看取った。吉行さんの遺言は、「全作品の著作権はまり子に」だった。宮城さんは思い出の品々を集めて、ねむの木に「吉行淳之介文学館」をつくった。自らが選んだ吉行さん作品のアンソロジー『宮城まり子が選ぶ吉行淳之介短編集』も出版した。

吉行さんと、ねむの木の子どもたちとどちらが大切なのか。宮城さんは、そう自問することもあった。

「(私は)淳ちゃんを一番愛している。そしてもう一つの、一番愛しているのはねむの木の子ども」(「私の履歴書」)
愛は、マシュマロみたいなものだ、とも書いていた。二つに分けても、それぞれがふわっと大きくなり、再び同じ大きさになると。



宮城まり子さん死去、93歳 人気歌手から「ねむの木」創立へ(2020年3月24日配信『JーCASTニュース』)

歌手や俳優として活躍し、肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」を静岡県に創立して福祉活動に尽くした宮城まり子(本名・本目眞理子=ほんめまりこ)さんが2020年3月21日6時55分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去した。93歳だった。

27日に学園内で、子供と職員のみでお別れの会を行う。28日以降、学園と世田谷区の自宅で献花を受け付ける。

慈善活動に関わる有名人は少なくないが、宮城さんのような人気芸能人が自ら施設をつくり、社会福祉事業家に転身したのはきわめて異例だ。信念と愛に支えられた情熱的な活動は多くの人から一目置かれ、いくつもの受賞をするなど高く評価された。作家の吉行淳之介(1924~94)さんとの親密な関係でも知られた。

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著書『またあしたから』(日本放送出版協会)より

「ガード下の靴みがき」で人気爆発


1927年、東京生まれ。4歳から舞や清元を習うなど芸事に励んだ。母親の実家は静岡県で銀行を経営していた。母は東京女子大中退で、当時の女性としてはインテリだった。

父の仕事の関係で少女時代を大阪、佐世保などですごした。小学校6年の時に最愛の母が亡くなり、ショックで不登校に。中学には進まなかった。やがて得意の歌を生かしてアマチュアバンドで歌うようになり、軍の施設などを慰問。戦後、米国のミュージカル映画を見て感動し、本格的に歌手を志すようになる。

地方回りの苦労もしたが、有名な演出家の菊田一夫さんや作曲家の吉田正さんに認められ、「あんたほんとに凄いわね」「毒消しゃいらんかね」などがヒット、さらに55年の「ガード下の靴みがき」で人気が爆発した。不幸な境遇に負けず、懸命に生きようとする靴磨きの少年の物語に、宮城さんの明るく健気な歌声がフィット、まだ焼け跡の体験を引きずる世代に感動を広げた。「励まされた」「死ぬのをやめました」という手紙が山ほど届いたという。

54年から62年までの間に、NHK紅白歌合戦に8回出場。当時としては、もっとも好感度の高い国民的な歌手の1人だった。女優としても58年、「12月のあいつ」で芸術祭賞を受賞したほか、同年の芸術座公演「まり子自叙伝」は日本初の3か月ロングランになり、テアトロン賞を受賞するなど華々しかった。

「脳性マヒの少女」の役がきっかけ


人気絶頂時の宮城さんは超多忙で豆腐の値段も知らなかった。これでは世間からずれると、57年に1年間、「婦人公論」でハンセン病患者の病棟や心臓手術の現場、夜中も働く人々などのルポを担当し、社会への目を開いた。

59年にはミュージカルで「脳性マヒの少女」の役をやり、障害児が社会からはじき出され、義務教育も受けられないことを知る。自分で支援施設を作りたいと思うようになり、折にふれ、内外の障害者施設を見学した。なかでもオランダの、障害者が仕事を持ちながらコミュニティを作って生活している施設群に共感を覚えた。68年、自己資金1700万円をもとに日本で初めての肢体不自由児のための養護施設「ねむの木学園」をスタートさせた。

人気女優の突然の福祉活動への転身は大きな反響を呼び、賛同の輪が広がった。宮城さんの「私の履歴書」(日本経済新聞社)によると、作詞家の服部良一さん夫人、作家の高見順夫人、作家の吉川英治夫人、伊藤忠の伊藤忠兵衛さん、松下電器産業(現パナソニック)創業者の松下幸之助さん、「絶対に匿名で」と政治家の鳩山威一郎夫人からも支援があった。見知らぬ作業着姿の人が突然1500万円の小切手を持参してきたことも。

貧しい子、養護施設の子も高校に行けるようにしてほしいと、田中角栄首相(当時)に直訴し、短期間で制度改正が実現したこともあった。

74年、記録映画「ねむの木の詩」をつくり、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル。このほか福祉や教育への貢献でエイボン女性大賞受賞、ペスタロッチー教育賞などを受賞した。



宮城まり子さん死去 「やさしいことはつよいのよ」(2020年3月24日配信『東京新聞』)

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終業式で宮城まり子さんの車いすを押す「ねむの木学園」の子どもたち=2018年3月、静岡県掛川市で

 宮城まり子さん(みやぎ・まりこ=「ねむの木学園」園長、歌手、本名本目真理子=ほんめ・まりこ)21日、悪性リンパ腫のため死去、93歳。東京都出身。27日に関係者のみで学園葬を営む。

 戦後、劇場などで本格的に歌い始め、55年、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」がヒットした。市川崑監督の映画「黒い十人の女」などに出演し、60年代後半からは舞台で活躍した。

 68年に私財を投じて静岡県浜岡町(現御前崎市)に肢体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立(後に同県掛川市に移転)し、園長に就任。自ら監督を務め、学園の様子を記録した映画「ねむの木の詩」(74年)は多くの共感を集めた。

 作家の故・吉行淳之介さんは私生活で長年のパートナーだった。

     ◇

<評伝> 宮城まり子さんがよく書く言葉がある。

 やさしくね やさしくね やさしいことは つよいのよ

 「やさしくね」は薄い墨で、「やさしいことはつよいのよ」は濃い墨で。自身の人生をよく表している。

 芸能界デビューは1949年。多才な人だった。歌手としては「ガード下の靴みがき」などのヒット曲があり、舞台や映画、テレビにもよく出た。雑誌婦人公論で「社会見学」という連載を担当し、社会問題の現場を取材した。

 東京新聞で「この道」(2008年4月から7月まで)の連載をお願いしたとき、昔話をたくさん聞いた。

 おしゃべりは、ユーモアを交えて上手だった。どこまでが本当で、どこからが冗談なのか分からないのが、取材者泣かせだった。

 肢体の不自由な子どもたちのための養護施設「ねむの木学園」は中部電力浜岡原子力発電所に近かった。「事故が起きたら、子どもたちを安全に避難させられない」と、九七年に静岡県掛川市の現在地に移転した。東日本大震災前のことだ。

 「この道」の終了後も時々、電話が入った。「元気ぃ」と明るい声で。福祉行政への愚痴以外は、たわいない話が多かった。パートナーだった作家、吉行淳之介さんの話題になると「いい男だったのよ」と声が華やいだ。

 学園の中を一緒に歩いていると、すれ違う子どもたちに声をかけながら、熱がないか、服が汚れていないかと、様子を見ていた。そんなやさしさと、学園を半世紀にわたって運営する強さを兼ね備えていた。

 22日午後、学園から宮城さん死去の連絡をもらった。「報道機関への公表は、こどもたちの精神状態への影響を考慮し、葬儀完了後行う」ということだった。その約束を守れなかったことを申し訳なく思う。

 学園はこの時期、ユキヤナギやレンギョウの花が満開になる。27日の学園葬は、愛した子どもたちと好きだった花が送ってくれるはずだ。ご冥福をお祈りしたい。 




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