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宮城まり子さん逝く 関する社説・論説集(2020年3月24・25日)

宮城まり子さん(2020年3月24日配信『北海道新聞』-「卓上四季」)

 12歳の夏、母を結核で失った。白い夕顔が咲く庭で、弟が地面に棒で母の顔を描きながら、体を震わせて泣いている。その時、「泣いている人にやさしくしてあげられる人になりたい」と思ったという

▼かつて札幌での講演会で、宮城まり子さんは、その思い出が、肢体の不自由な子どもたちの施設「ねむの木学園」につながっていると語っていた

▼決定的だったのは、俳優として脳性まひの少女を舞台で演じることになった経験だ。演技のために施設に通い、そんな子どもたちを観察しているうちに、はっとした

▼「たかだかちっぽけな女優が、あの子を自分の演技のお手本として見ている、あの子は見られている。そんな違いがあっていいのかしらと思ったら、どうしても演じられなかった」。さらに、「就学猶予」の名目で、その子らが教育の機会を奪われていることにも腹が立った

▼こうして1968年、私財をなげうち、ねむの木学園を設立する。「売名行為」の批判や、結局は「何もしてやれないのでは」という無力感。だが「愚痴をこぼさず、決してやめない」。くじけそうになるたび、パートナーだった作家の吉行淳之介さんとの約束に背中を押され、半世紀以上が過ぎた

▼隠れた才能を伸ばすため、絵や音楽など多彩な教育に取り組んだ。「話すことのできない子にとって絵は手紙なんです」と、捨て身の愛情を注いだ生涯だった。



ねんねの ねむの木 眠りの木(2020年3月24日配信『河北新報』-「河北春秋」)

 東京にある上皇后美智子さまの実家跡地の公園は「ねむの木の庭」と呼ばれる。上皇后さまが作詞した『ねむの木の子守歌』が名前の由来。<ねんねの ねむの木 眠りの木 そっとゆすった その枝に 遠い昔の 夜の調べ ねんねの ねむの木 子守歌>

▼荒地でもたくましく育ち、可憐(かれん)な花を咲かせるネムノキ。上皇后さまと同じようにこの花を愛したのが俳優の宮城まり子さんだった。障害者に寄り添ってきた2人の交流は40年以上続いた

▼宮城さんの訃報が届いた。脳性まひの子どもの役を演じる際、施設を訪問したことが運命を変えた。重度の障害がある子が義務教育の機会を与えられていない現状を知る。1968年、静岡県に日本初の体が不自由な子のための養護施設「ねむの木学園」を開設した

▼学園の様子を追った記録映画に印象的な場面がある。足が不自由な少年が腕の力で砂丘をはい上がろうとする。仲間の声援を受けて登り切った時、そこに青い海が広がっていた

▼学園は絵や音楽を通じて能力を引き出す教育で注目された。「全ての子どもは大人の支えがあれば輝けるんですね」。宮城さんは子どもの絵を見た上皇后さまのこの一言が忘れられなかったという。ネムノキの花言葉は歓喜や創造力。それらに満ちた93年の生涯だった。



「君のことは、大好きです」(2020年3月24日配信『産経新聞』-「産経抄」)

 男女間の性の深淵を描き続けた作家、吉行淳之介さんの全集(新潮社)の最終巻に、人生のパートナーだった女優の宮城まり子さんに送った13通の手紙が収録されている。書かれたのは、昭和34年11月から翌年1月にかけて。宮城さんは妻子のある吉行さんとの恋愛に終止符を打つために、ニューヨークに滞在していた。

 ▼「君のことは、大好きです」。ストレートな愛の言葉もあれば、こんな変化球も。「小生誘惑が多く、毎日神さまにお祈りして、日を送っている」。宮城さんに焼きもちをやかせて、帰国をうながそうとしている。

 ▼宮城さんが肢体不自由児療護施設「ねむの木学園」を設立するきっかけとなったのは、ミュージカルで脳性マヒの少女を演じたことだった。役づくりのために取材に通った病院の医師から、「就学猶予」という言葉を教えられる。

 ▼重い障害のために教育が受けられない子供の存在を知って、大きなショックを受けた。女優のかたわら福祉の勉強を続けた。施設の創設を吉行さんに相談すると、「3つの約束が守れるなら」とOKが出た。「愚痴はこぼさない、お金がないと言わない、途中でやめない」。

 ▼静岡県掛川市にある学園が今年創立52年を迎える。大人のための療養施設や美術館、吉行さんの文学館もつくった。宮城さんは吉行さんとの約束を守り切り、93年の生涯を終えた。

 ▼「今年は何か賞がほしかった。鳥獣虫魚で貰(もら)いたかった」。手紙の中で宮城さんが、特に気に入っている記述である。2人の恋愛が描かれている作品だからだ。宮城さんは平成6年に亡くなった吉行さんから作品の著作権を受け継いでいる。自ら編集した吉行さんの短編集に、「鳥獣虫魚」が含まれていることは、いうまでもない。

ごみ箱の中の歌詞(2020年3月24日配信『東京新聞』-「筆洗」)

 レコード会社のごみ箱の中に歌詞が捨てられていた。それをたまたま見かけた女性が拾い上げ、読んだところ、かわいそうな戦災孤児の歌だった

▼これをどうしても歌いたい。関係者にかけ合った。ヒットした「ガード下の靴みがき」(1955年)である。ごみ箱の曲を拾い育てた人が亡くなった。歌手で女優の宮城まり子さん。93歳。誰も気に留めなかった存在に手を差し伸べる。その後の生き方と重なる逸話かもしれぬ

▼父親は生活の苦しいジャズマン。弟さんと2人でたいへんな苦労をして音楽の道に入った。戦後は巡業の日々だったそうだ

▼からだの不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立したのは障害者というだけで教育が受けられない当時の現実と自身が子ども時代に経験した悲しみがある。弟さんとこんな約束をしていたそうだ。「泣いている子にやさしくしようね」。それが学園となった

▼当初は俳優の道楽と見られ、苦労の連続だった。汚物の付いた何十枚もの下着を素手で泣きながら洗った。干し終えたとたん、ロープが外れて全部落ちた。「神様、私はうそつきです。やさしくなんかありません」。逃げ出したくなる日もあったという

▼子どもたちにはこう教え続けた。「やさしくね、やさしくね、やさしいことは強いのよ」。「やさしくしようね」から逃げなかった強い人が旅立った。



「あの子たちは生まれて最初に障害という大きないじめに遭っています」(2020年3月25日配信『南日本新聞』-「南風録」)

 父を亡くし悲しみにくれていたとき転機が訪れた。「私は涙をふく手を持っている。持っていない人はどうするんだろう。病気の子どもはどんなに勉強したいだろう」

 そんな思いが宮城まり子さんを障害児教育に駆り立てた。当時は旧優生保護法下で障害児は十分な教育を受けられなかった。怒りと悲しみに震え、国に「あの子たちは生まれて最初に障害という大きないじめに遭っています」と掛け合った。

 特例として施設設立が認められ、1968(昭和43)年、静岡県に「ねむの木学園」を造った。音楽や絵画を通じて能力を引き出した。パジャマをチャヂャマと、幼児語を使う子がいても直さなかった。たっぷりと甘えて幸せを感じてほしかったからだ。

 エッセー集「まり子の『ねむの木』45年」に猫の話がある。母猫に付いていく子猫がいれば、別の方向に歩く子猫もいる。「どっちが幸せなんだろうか」と自問する。「母ちゃん、母ちゃん」と慕う子どもたちの将来をいつも案じていたのだろう。

 障害者を取り巻く環境は今も厳しく、時に差別意識があらわになる。芸能界から転身した宮城さんが夢見た、みんなで助け合い、共に暮らす社会は実現していない。

 宮城さんが93歳で亡くなった。ネムノキは荒れた土地に他の木に先駆けて生えるという。園長として母ちゃんとして障害者支援の道を切り開いてきた人生と重なる。




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